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お宝・古文書調査隊

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【ジャンル1】工芸【ジャンル2】容器【年代】飛鳥奈良【地域】大阪茨木【投稿】H.Isida
No.66太田廃寺、金銀銅の仏舎利容器

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 茨木市太田には京都と西宮を結ぶ山崎通(やまざきみち)が東西方向に通っている。山崎通は江戸時代になっての呼び名で、奈良・平安時代は山陽道の一部であり、京都から西国への重要道路で、通称の西国街道の方が世間的には知られている。
 太田では太田茶臼山古墳が街道脇の北側にあり、南側に太田中臣連の寺があったが、存在したのは飛鳥時代末期から奈良時代で、平安末期には寺はあったことすら忘れられた。
 長い年月のあと、明治40年5月15日、大字太田上野で家屋を建てるに際し、土を掘っていたところ大きな塔心礎と思われる土台石(1.6×1.58m)が見つかった。
 石の上部に94cmの浅い円形が彫られ、更にその中心に30×22cm深さ16cmの矩形の孔があり、その孔には大理石製蓋付きの櫃が組み込まれていた。蓋を開けると中には、銅製球状の椀、さらにその中に銀製の小箱、さらにその中に金製の小箱が出て来た。
 ここまでは何事もなく良かったのだが、その金製の小箱を開けたとき、中に入っていた仏舎利に相当する米粒ほどの小石が下に落ちたのだ。地面は雨に濡れた工事現場特有の泥水状態、慌てて泥水を掻き出して探し出したが遂に見つからなかったと云う。(太田村史)
付近からは飛鳥末期から奈良時代に相当する瓦の破片が出土し、その時代に瓦を使用するのは寺院しかないので、太田廃寺と仮名を付けられた次第。
 容器は時の権力が有無を言わさず収容し、現在は大理石と金、銀、銅の容器は東京の国立博物館に展示され、茨木には文化財資料館に断面のレプリカが置かれている。
塔心礎はその後、個人宅の庭石として売られた。場所や所有者は判っているのだが、「すでに苔むし、生い茂った庭木のため写真撮影に苦労した」状態だったと云う。(飛鳥資料館「さいきん飛鳥におもうこと」)
国宝級とされ、全国で5例しかないこの時代の仏舎利容器は東京に持っていかれ、塔心礎も地元になく、仏舎利に相当する小さな石だけは地元を離れるのを拒否したという訳だ。
 尚、太田廃寺を建立したとされる太田中臣連と太田茶臼山古墳の関連は全く分からないが、すぐ北側にある鎌足廟とされる阿武山古墳からは古墳も寺も真下に見える位置に在る。

【ジャンル1】樹木【ジャンル2】神木【年代】江戸【地域】大阪茨木【投稿】M.Ishida
No.65ご神木はヤマモモ

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 大阪毎日放送は吹田市千里丘にあった。千里丘陵の東端に位置する郊外型の放送局で、丘陵地には放送スタジオ以外にもミリカホールや、有料のミリカプール、ミリカ天然温泉などのあるレクリエーション施設も備えていた。
 さて、毎日放送千里丘センターの代名詞になった「ミリカ」とは何のことだろうか。 
ミリカの綴りMiricaはフランス語およびラテン語にあり、和訳すると「ヤマモモ」の意味である。なぜ大阪毎日放送はミリカの代名詞を使ったのかというと、建設予定地にヤマモモの老大木があったからだ。その老木を簡単に伐採すると罰でも当たると思ったのか、放送局は御丁重に「ミリカ」の冠を施設名に捧げた。本来ならば土地の御神木として残したかったのだろうが、どうあがいても建物に掛かったのだろう。実のなる樹木を切り倒すことは、商売(事業)が廃る可能性もある。施設名に付けて残すしか方策はなかったのかも知れない。
 ミリカ放送センターから北北東に2km強に中穂積春日神社(茨木市中穂積)がある。数十mの小高い九定山(くじょうやま)山頂にあって中穂積村の村社である。茨木市の平野部は平安時代ほとんどが藤原氏の荘園であったので、藤原氏氏神の春日大社から勧請した春日神社が九つもある内のひとつだ。その中穂積春日神社のご神木がヤマモモの木で、本殿の脇にしめ縄が張られた立派な大木だ。本殿に登っていく参道の所々にも大きくはないがヤマモモの木があり、時期が来ると赤い実がなっている。
 この神社から北東に7km弱の高槻市宮之川原元町に式内社の神服(かむはとり)神社がある。石の鳥居をくぐると大きなヤマモモの木が目立つ。境内の真ん中にあるので一目でご神木とすぐに判る。神服(かむはとり)神社は名前のとおり服部(はっとり)から来ている。以前はこの辺りを服部と呼んでいた地区で、「はっとり」は「秦氏の織り物」から由来していることはご存知の通り。
 吹田市千里丘、茨木市中穂積、高槻市宮之川原を「ヤマモモの木」は繋いでいる。
 ヤマモモはベトナムから中国の沿岸そして九州、四国、本州の太平洋岸の浅い山間部などに分布し、熊本県や滋賀県などの神社でもヤマモモのご神木はあります。種が漂流してきたのかも知れないし、渡り鳥がもたらしたのかも知れない。あるいは地殻変動の影響かも知れない。でもヤマモモはそれほどの年月をかけずに大木になります。幹回り6〜7m、高さ10m以上に三、四百年ほどでなれるのです。しかし人間が美味しい実のなる「ヤマモモ」をご神木とお祀りしている遺伝子は、千年、二千年と続いていくでしょう。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】配置【年代】古代【地域】大阪茨木【投稿】M.Isida
No.64高良(こうら)神社と二つの継体天皇陵

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 宮内庁が継体天皇陵と定めた太田茶臼山古墳と、99%本当の継体天皇陵と云われている今城塚古墳の中心部(石室推定地)を結んだ直線を試みに引いた。墳丘中心線ではなく、石室があったと思われる後円部に近い中心点を結んだ直線。・・・ほぼ西南西から東北東になるその直線は、東北東に延ばすと石清水八幡宮が坐する男山鳩ヶ峰に行きつき、西南西にずうっと遥かに九州まで伸ばすと久留米市の郊外にある高良山付近に達した!
 男山には石清水八幡宮とほぼ同時期(貞観年間)にできた高良神社があり、九州の高良山のふもとには高良大社が在る。京都府八幡市の高良神社は石清水八幡宮創建の翌貞観三年(861年)に造られ、八幡宮の脇役のようにわざとひっそりと存在している。
 福岡県久留米市の高良大社は筑後国一宮で古墳時代の仁徳天皇五十五年(或は履中天皇の頃)創建され、高良玉垂命という謎の神様と八幡大神、住吉大神を祀る。
 逆に言うと、九州の高良大社と石清水八幡宮の脇にある高良神社を結ぶ線上に、太田茶臼山古墳と今城塚古墳の中心部分が入っている。(パソコンのルートラボ検索で簡単・正確)古墳と神社の四つのどれが先に在ったのかは、高良大社と太田茶臼山古墳が古く、その次が今城塚古墳、そして男山高良神社が一番新しい順。しかし神社の由緒書や日本書紀、古事記などが当てにならないものばかりで、高良神社がもしかすると石清水八幡宮より古い時代に男山にあった可能性もある。石清水八幡宮は行教和尚が御託宣によって平安京の裏鬼門の山に造営されたとしているが、男山は長岡京の真南に位置する風水での大事なポイント。平安京も長岡京も秦氏がスポンサーとなっていたことは有名な話で、秦氏は風水を熟知し京都近辺の山々などをきっちりと把握していたと思って間違いなかろう。
 処で高良大社の末社に味水三井(うましみずみい)神社という泉が湧いている聖地があり、九州の「うましみず」と岩から泉が湧いている場所がない?男山の「いわしみず」という発音の似た関係がある。高良大社の主神、高良玉垂命は同社の縁起曼荼羅によると「神功皇后の妹、豊ヒメを磯良(いそら)神に遣わし援軍を要請した」としている。したがって高良神は神功皇后の参謀役の竹内宿祢という説もある。
 磯良神とは玄海灘の水先案内人と言われている神様で、実は茨木市の太田茶臼山古墳近く1キロメートル弱に磯良神社があり、神功皇后の逸話が残っています。この磯良神社は別名「疣水(いぼみず)神社と言われ、神功皇后が三韓征伐に出かける前にここの泉水を飲んだところ顔中にイボのような吹き出物が出て勇ましい顔になり、三韓征伐後再びここの水を飲むと元の美しい顔に戻った。実は磯良神も海中に住んでいるので顔中フジツボだらけで豊ヒメに会うのを嫌がったという話しがあり非常に似かよった説話になっている。
神功皇后は西宮の廣田神社・石清水八幡宮をはじめ摂津のあちこちの神社によく登場する。
 継体天皇と高良神、神功皇后と磯良神と八幡宮、これらが偶然に繋がったのか?もし繋がるならば、歴史の表面に出たがらない秦氏の存在が欠かせないと推理されるのだが・・・
 風水に守られた千年の都平安京のエネルギーは、風水の最重要地点「穴」にある神泉苑から湧く豊富な清水だったと云われ、この地は聖徳太子の右腕、秦河勝の邸宅があったとされている場所。高良神など祀った神社は全国的に珍しいのに、その東西にある神社を結ぶと継体天皇陵が浮かび上がって来た!
 今までの前方後円墳の謎は、「墳丘の中心軸」を基本に、古代風水の夏至冬至の日の出、日の入りや、目印になる特徴的な山などを結ぶ直線が推理のファクターだった。そこに新たに高良神という要素が入って余計に謎が深まってゆく。
 蛇足ながら茨木市三島丘にある疣水磯良神社では疣はもちろん吹き出物や腫瘍にもご利益があるそうだ。ポリ容器で各地から汲みに来られる方々にとっては「宝物」である。
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【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】切支丹【年代】戦国【地域】大阪茨木【投稿】M.Isida
No.63隠れキリシタンお宝秘話

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 大正時代以降、茨木市北部の千提寺、下音羽地区でキリシタン関連の遺物が次々に発見された。茨木の山間部は、戦国末期天正十三年(1585)まで高槻城主キリシタン大名高山右近の領地であった。処が秀吉さらには徳川幕府がキリシタン信者弾圧を一層強め、この辺りでも数度の踏み絵などの取り締まりが実施された。明治を迎えた新時代に、大阪のどこを探しても隠れキリシタン信者はいないと誰もが考えた。
 しかし茨木中学の天坊幸彦先生から「君が住んでいる地域にはキリシタンの痕跡が残っているはず」と教えられた茨木安元(やすもと)でお寺を継いだ藤波大超は大正八年の冬、千提寺に住む東藤次郎から遂にキリシタンの墓碑を聞き出した。その翌年には、東家母屋屋根裏の梁にくくり付けられた「あけずの櫃」が日の目を見ることになる。有名な「聖フランシスコ・ザビエル像」の画絵は、この櫃に入っていたのだ。下音羽の大神家では、納屋の藁の中から象牙のキリストと黒檀の十字架で作られた「キリスト磔刑像」などが、近辺で遺物や墓碑が続々と発見された。
 神戸の資産家、池長孟(はじめ)は稀代の南蛮収集家で、この報を聞きつけると足しげく茨木の山奥に通うこととなった。自身が「身上を潰して南蛮狂い」と言うほどで、土地や資産を売っては数千点を収集していた。池長氏が特に興味を持ったのが東家のザビエル画であったが、東藤次郎は絶対に首を縦に振らない。しかし池長も毎日のようにやって来るので、東藤次郎は「言い値の倍をふっかければ諦めるだろう」と「3万円(現在なら2千万円前後か)なら売ろう」と返事した。さすがの池長もその金額に驚いたが、神戸の垂水にあった別荘を処分し3万円を作った。ようやく手に入れた池長氏は私設美術館に所蔵し、戦時中は隣接の耐火倉庫に保管し、神戸の大空襲を免れた。だが戦後、池長氏は税金に苦しみ、収集品が散逸するのを避けるため神戸市にコレクションを寄贈する。一方の東家も3万円にはその後一切手をつけなかった。お宝を買った方も売った側にも苦悩が待ち受けていたのだろう。
 処で、歴史の教科書にも載るほど有名になったこの画像や数々の遺物のほとんどが、西暦1600年より後の製作らしい。高山右近が高槻から明石に移封された後に、ヨーロッパからこの地にもたらされた物も多い。千提寺のキリシタン遺物館は神戸市立博物館に比べれば滅茶苦茶に小規模である。でも間近に宝物が見られる上、上記紹介した歴史的な重みがひしひしと伝わってくる。
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【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】水路【年代】古代【地域】大阪高槻【投稿】M.Isida
No.62北摂の秦氏と紅花

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 大坂北部の数都市には、古くから秦氏の痕跡を示す秦上郷・秦下郷などの地名があったが、現在でも「ハタ」などの関連地名や神社が結構残っている。池田市には呉服(くれは)町、綾羽(あやは)、畑(はた)そして呉服(くれは)神社や秦野小学校がある。
 豊中の服部地区は服部緑地一帯、茨木市の畑田(はたけだ)、高槻市の神服(かみはとり)神社や服部図書館などが現存名だ。
 「ハットリ」「ハトリ」は秦(はた)の織物、つまり機織り(はたおり)からきているのはご存知の通り、クレハは呉の国から来たとされ、アヤハは綾を織る繊維織物の関係。
高槻市の神服(かみはとり)神社一帯はつい最近まで服部(はっとり)と呼ばれ、今でも服部の越瓜(シロウリ)という地元野菜は家康も食した富田漬けの原料だ。
 茨木市の畑田のすぐ近くに安威(あい)という地名がある。安威は染料の藍(あい)からの地名と云われているが、安威村史には「藍」ではなく「呉(くれ)のアイ」としている。
「くれのあい」とは「紅(くれない)」のことで、紅花から染料を取る。安威に隣接して「桑原(くわのはら)」という場所がある。安威も桑原も雄略、継体、欽明天皇頃からの古い地名だ。桑は蚕のエサなので、機織りの原料の絹生産に欠かせない。織った絹布は高貴な紅で染色したのであろう。
 秦氏は養蚕や機織りだけの手工業だけではない。土木関連などにも精通していた。
三島古墳群の中でも最大墳丘の「太田茶臼山古墳」と「今城塚古墳」の間に五社水路という灌漑水路がある。この水路が、古代は三島の島上郡と島下郡の境界線となっていた。だから郡を設定した律令時代にはもう水路は出来上がっていたわけだ。いやもっと古く「太田茶臼山古墳」ができた5世紀中頃にはあったかのように、この古墳を避けるように掘られている。安威川をせき止めて富田地域までの五社(五つの村)に水を流していた形式は、保津川をせき止めて太秦(うずまさ)一帯を開墾したミニ版(或は試作品)のように思える。(太秦は秦河勝が開発したと云われている)
 秦氏はやがて北摂から姿をくらますかのように去り、拠点は山城国の弟国・太秦辺りに移って行く。北摂にはその後、藤原氏関連(藤原氏、春日大社、興福寺など)の荘園が万遍なく広がり、秦氏の痕跡は奇麗に消されてしまった。さらにこの辺りの古墳はほとんど盗掘されていて、残念ながら秦氏と繋がるものは見つかっていない。
ところで秦氏はどこから来たのだろうか。面白いヒントをご紹介しよう。
 司馬遼太郎の最高傑作(と私が思っている)「街道をゆく」の第十巻「羽州街道」に紅花の話しがあった。荒っぽく要約抜き書きすれば「伝説の呉織(くれはとり)漢織(あやはとり)がやって来た上代(応神紀)にこの染料がもたらされた。呉や漢は中国の地名ではなく、高麗(こうらい)をクレと読み、アヤは伽耶(かや)を意味する朝鮮半島の意見をとりたい」と書かれていた。倭へは朝鮮半島から渡って来たことを暗示しているが、その前はどこであったのか、またどれほど果てしない旅をしたのかなどは書いていなかった。
 もう一つヒントを書きたい。エジプトのミイラは、紅花で赤く染めた亜麻布に包まれている。日本では藤の木古墳の被葬者が赤い布にくるまれ、棺全体にベニバナが蒔かれていた。朝鮮半島や中国では収まり切れない地域が紅花には隠されている。未だ、北摂から秦氏に関連するお宝が発掘されていないが、中央アジアやさらに西域の出土品が発見されないかと楽しみにしている。
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【ジャンル1】岩石【ジャンル2】作家【年代】明治【地域】大阪茨木【投稿】M.Isida
No.61 川端康成昼寝石

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 幼少の川端康成が祖父母の茨木の家に引き取られたのは、両親が病死したからである。小学校時代はあまり村の子供たちと遊ばず、図書館の本が友達がわりだった。病弱で真綿にくるまれた生活の康成少年は、祖父母の家の庭にある大きな木の枝や石の上に寝そべってひたすら本を読む毎日だった。小学校高学年からは祖父一人が相手だったことも川端少年を本に走らせたのだろう。図書館で借りた本を天気の良い日には庭に出て、大きな木斛(もっこく)の枝にまたがり幹を背にして、また暑い日には冷たい大石に寝転がって読書をした。
                    ・
 唐突な仮説だが、「川端文学」は大自然の産物である木や石によって至高の域に達したのだと思っている。祖父の家を南限とした茨木山間部には石英閃緑岩が露出した一帯(東西約5km南北約10km)がある。北摂近辺で石英閃緑岩が現われるのは六甲山の一部と鞍馬山に見られる。両地域ともに有名なパワースポットだ。全国的にも石英閃緑岩とパワースポットの関係を探ると、秋田県大湯環状列石群(サークルストーン)や山梨県道志村の的様の滝、長野県横湯川渓谷の地獄谷、岡山県吉備中山の磐座など枚挙に暇がない。
 大湯のストーンサークルなどはわざわざ別の場所から石英閃緑岩を7kmも運んでいる。
つまり川端康成が寝そべって本を読んでいた石は、近くの山から出た秘めたパワーを発する石英閃緑岩ではなかったかという仮説である。木斛の木も、石英閃緑岩の表層水やろ過された水で大きく育ったため、大自然のパワーを持ち合わせていたのだろう。
                    ・
 祖父の家がある山麓や茨木の市街地では白井、赤井(閼伽井)、青井、黄井、黒井、桃の井、松井、玉の井(疣水)などの有名な井戸がある。松井は小栗判官が熊野詣りに立ち寄り、弱った身体が回復したと云われている。玉の井は神功皇后伝説があり、黒井は秀吉が愛用した井戸水である。ほかの井戸や泉でも、伝説や奇跡の逸話を持ち合わせている。
 川端康成も山間部の石英閃緑岩をろ過した水を飲むことによって、本人が気が付かないうちに不思議なパワーが身に着いた。石の上や木の枝でひたすら本を読むことに集中した。それがノーベル文学賞の源泉になったという説は如何であろう。
 川端康成自身は茨木中学を卒業してからは避けるかのように来なくなった。しかし川端文学が表現する「日本の自然」の妙味や美しさは、茨木の水、水が育てた木々や草花、木々や草花が発する空気の中で多感な幼・少年期を過ごしたからからこそ、あの表現力が生まれたのは確かなことだ。
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No.60大坂落城時に籠城南蛮人が持ち出した豊臣御宝の在り処

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