茨木市太田には京都と西宮を結ぶ山崎通(やまざきみち)が東西方向に通っている。山崎通は江戸時代になっての呼び名で、奈良・平安時代は山陽道の一部であり、京都から西国への重要道路で、通称の西国街道の方が世間的には知られている。
太田では太田茶臼山古墳が街道脇の北側にあり、南側に太田中臣連の寺があったが、存在したのは飛鳥時代末期から奈良時代で、平安末期には寺はあったことすら忘れられた。
長い年月のあと、明治40年5月15日、大字太田上野で家屋を建てるに際し、土を掘っていたところ大きな塔心礎と思われる土台石(1.6×1.58m)が見つかった。
石の上部に94cmの浅い円形が彫られ、更にその中心に30×22cm深さ16cmの矩形の孔があり、その孔には大理石製蓋付きの櫃が組み込まれていた。蓋を開けると中には、銅製球状の椀、さらにその中に銀製の小箱、さらにその中に金製の小箱が出て来た。
ここまでは何事もなく良かったのだが、その金製の小箱を開けたとき、中に入っていた仏舎利に相当する米粒ほどの小石が下に落ちたのだ。地面は雨に濡れた工事現場特有の泥水状態、慌てて泥水を掻き出して探し出したが遂に見つからなかったと云う。(太田村史)
付近からは飛鳥末期から奈良時代に相当する瓦の破片が出土し、その時代に瓦を使用するのは寺院しかないので、太田廃寺と仮名を付けられた次第。
容器は時の権力が有無を言わさず収容し、現在は大理石と金、銀、銅の容器は東京の国立博物館に展示され、茨木には文化財資料館に断面のレプリカが置かれている。
塔心礎はその後、個人宅の庭石として売られた。場所や所有者は判っているのだが、「すでに苔むし、生い茂った庭木のため写真撮影に苦労した」状態だったと云う。(飛鳥資料館「さいきん飛鳥におもうこと」)
国宝級とされ、全国で5例しかないこの時代の仏舎利容器は東京に持っていかれ、塔心礎も地元になく、仏舎利に相当する小さな石だけは地元を離れるのを拒否したという訳だ。
尚、太田廃寺を建立したとされる太田中臣連と太田茶臼山古墳の関連は全く分からないが、すぐ北側にある鎌足廟とされる阿武山古墳からは古墳も寺も真下に見える位置に在る。 |