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お宝・古文書調査隊 報告記事 vol.1 No.1-20
お宝・古文書調査隊

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【ジャンル1】祭祀【ジャンル2】由緒【年代】古代【場所】奈良・御所【話題提供】御歳神社
No.20 古代祭礼で生贄の供えられた社
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 「騎馬民族は来なかった」(佐原真,1993年)が世に問われて直の頃、“お宝調査員”は

 水越峠を越えて葛城山麓の「御歳社」を訪ねた。 “全国数多ある社の中、古代祭礼で生贄を供えられたのは「葛城御歳社」のみと書かれています。その痕跡を見せて下さい。”との来社趣旨に、町の名士でもあるU神主は奥から書物を持って来られ徐に語った。“当社の由緒に、それに纏わる事柄が確かに書かれている。”・・・社が有名な古代史論争の渦中に投げ込まれていることは、その時まだご存知なかった。
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社の創祀は神代に遡り、弥生期から神奈美の御歳山に磐座をたてた処で、「御年玉」(神に捧げた餅玉)の起源処でもある。その意味で全ての日本人と繋がる社だが、年穀豊稔を祈る為に“「白猪・白馬・白鶏」供えて御年神を祭る”点に、嘗て複数の著名な歴史学者が注目した。
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 戦後の古代史に波紋を広げた「騎馬民族征服王朝説」(江上波夫、1967年)では「到来した騎馬民族」の痕跡例として当社を挙げた。しかしそれから二十数年後の「騎馬民族は来なかった」説では、“騎馬民族”に由来する痕跡が「葛城御歳社」唯一の例であると指摘し、“動物を飼い慣らす術を有し、神に生贄を供する大陸渡来民族は、日本を征服するほどの勢力は無く、弥生以来の農耕民族に同化し消え果た。”と論じた。

 何れにせよ、馬を操る大陸の民が朝鮮半島を駆け抜け、小舟に馬を載せて対馬海峡を渡り葛城山麓の御歳山の地に辿り着いたことは両者とも認めているのだ。
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この國には“八百万(やおよろず)”もの神々が座します故、古に毛色の変わった神が紛れ込んでも何ら不思議は無いだろう。他処にも異郷から運び込まれた神は座しましょうが、長い年月経る間に惜しくも原初の姿を辿れなくなった社も多々在るのでは?・・・

 「葛城御歳社」はU氏の跡を継いだ女性神主により“お宝祭祀”は大切に伝世されている。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】石棺【年代】古代【場所】大阪市【話題提供】四天王寺
N0.19四天王寺境内に伝世する石棺蓋
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 大阪・四天王寺に参ると、“和宗総本山”“日本仏教最初官寺”の大見出し目立つが、山号「荒陵山」であることは忘れがちだ。従来“荒れた陵”とは四天王寺(茶)の南西にある茶臼山古墳(赤丸)を指すとされて来たが、最近の調査で古墳の痕跡が見つからず、寧ろ四天王寺境内から“水銀朱を塗られた石室らしきものが発掘されている。

 「四天王寺」は物部守屋鎮魂の為に元は大阪城公園辺りに建立されたが、その後の難波宮造営に纏わる古代の大規模都市計画の一環で、難波大道沿いの“荒陵の地”に移転した。

 台地の尾根筋に広大な平地は少なく、宮殿や大寺院に相応しい一等地は@大坂城〜難波宮跡辺りとA四天王寺周辺に限られる。以外の場所は尾根筋の東西から細谷が入り組む。

 では、その一等地に先んじて造営され、その頃既に忘却されていた古墳の主は誰だろうか?

 処で上町台地の先端(黄)には、古代河内湾に出没する「生島・足島」を見守る「生國魂社」が存在した。此処は縄文時代に遡って“聖域”だったと考えられる。聖域の一等地に大古墳を築くは、“国生み神話”を共有する邑落国家連合の「大君」以外無かろう。      そして@大坂城地点が「トヨ」と呼ばれた痕跡のあることは、A“荒陵”地点に葬られた主を推理する一助と成ろう。「四天王寺」に開山以来伝世している「石棺蓋」は、すべての日本人にとり“歴史上極めて重要な人物に由来する御宝”なのかも知れぬ。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】マウント【年代】古代【場所】大阪市【話題提供】R.N
N0.18「浪速ヒッサリクの丘」
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 大坂城が築かれた上町台地の先端には難波宮跡を始めとして古代からの遺跡が集まる。

 現在の城郭は徳川大坂城で、その下に豊臣大坂城(右図)が埋まり、更に下には石山本願寺城が隠されている。更々にその下には中世絵図(左)に描かれた「石山」が埋まっている。恰もシュリーマンが「トロヤ」を発掘したトルコ・ヒッサリクの丘のように幾重にも遺跡の重積した地点だ。

 上町台地の地層は大坂層群と呼ばれる細かい砂礫で構成され、元々大きな石は無い。

 処がその台地の先に“石の豊富な山”が存在し、かつて上町台地が大阪湾に突き出た半島だった頃、岬の「難波埼」は「石山崎」とも呼ばれていたことから目立つランドマークだった。石は他所から運ばれ山の表面に拭かれていたと考えられ、件の石山は「豊臣大坂城本丸」の形から、全長400m程で初期の柄鏡型前方後円墳説もある。

 「石山」の直ぐ南側に「生國魂社」が描かれているが、社は“国生み神話”の舞台となった古代河内湾を見晴らす岬に建てられ、「生島・足島」の消長を見守る「木造のアクロポリス」だった。浮き出た島々がプヨプヨゲームのようにくっ付いて出来上がった大阪平野の醸成経緯から社の起源を辿れば、凡そ4000年前の縄文時代にまで遡ってしまう。
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さて此処に作られた前期難波宮は「長柄豊埼宮」と称された。また石山の上に大坂城を築いた羽柴秀吉に朝廷は「豊臣」姓を下賜した。処で古代において蘇我馬子=島大臣、物部守屋=弓削大連のように極めて狭い地域の名前を付けたのは、住居下に居ます「地の神」を畏敬したからだ。如何な時の権力者でも大勢の一族棲む真下で石動されては敵わない。 

 当時の宮中には“石山周辺が「トヨ」と呼ばれていた伝承があり、古の故実に倣い秀吉一族安寧を願って「豊臣」姓を下賜したと推理される。では、「トヨ」の地に巨大な前方後円墳を築いたのは誰か?・・・自ずと卑弥呼の宗女「台与」が当て嵌まるのだが・・・。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】景観【年代】古代【場所】大阪府【話題提供】R.N
N0.17国生み神話の古代お宝景観

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 先月サンケイに生国魂社・権宮司の方のコメントが掲載された。

“・・・上陸したイハレビコはこの地に、生島大神と足島大神を祭った。「生玉さん」として有名な生国魂社(大阪市天王寺区)起源である。同社は豊臣秀吉の大坂築城まで、海に近い上町台地の北端に鎮座していた。生島大神は島が生まれる状態、足島大神は島が成長、充足していく状態を神格化したものと考えられる。同社では鎌倉時代まで、天皇の御衣を海に向かって振り、大八洲の霊を身に付ける即位儀礼「八十島祭」が行われていた。この儀式のために奈良時代の歴代天皇が即位の翌年、難波に行幸したことは「続日本紀」に記されている。生島・足島の神名は国生み神話にも通じ、急流に洗われ、淀川や大和川が運ぶ土砂によって陸地化していった上町台地周辺が、古事記が記す国生み神話の元・・・“
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この説に拠れば、縄文時代に存在した河内湾(右図)に4000年前頃「生島」として浮上し、その後汐に流されぬ「足島」に成長した島が『淤能碁呂島』と縄文人に目された!

 さて、古事記の記述は“伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島となった。”のみだが、短い記述の中に国生み神話の古代景観を特定する二つのキーワードが含まれている。

@天浮橋・・・天橋立(京都)・弓ヶ浜(島根)・三保の松原(静岡)を上回る「天満砂州」が古代河内湾の陸地化に先行して、上町台地の先端から対岸へ雄大に掛かっていた。

A天沼矛・・・国生み神話の中で“矛がペニスの象徴である”ことは言うまでも無かろう。ペニスとペニンスラ(海に突き出た半島)は語源を同じゅうする。しからば“上町ペニス”から滴り落ちた『淤能碁呂島』は現在の「都島」辺りに凝固したと推定される。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】城塞【年代】戦国【地域】大分県竹田【話題提供】A.Goto
No.16豊後岡城とスペイン・クエンカ城塞の類似
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 豊後岡藩に“岡”という地点は無く、件の「岡城」は城下の地名「竹田城」もしくは「挟田城」が相応しいと思われる。最近「岡城」の由来は“大規模な城”を意味する“Alcázar”のポルトガル読み“オッカジョール”との見方が出ている。

 戦国時代、幾つかの地域には予想外に大勢の南蛮人が入植し、植民地化の足場と成り得る南蛮式要塞の構築に手を貸したのではないか?その事例として「豊後岡城」と世界遺産スペイン「クエンカ城塞」の類似を写真で比較する。これ以上の興味を持たれる読者は現地を訪れ尾根筋全長3キロの盆地を取り巻く“長城”を一見し、歴史の真相を推理願い度。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】邪馬台国【地域】大阪府南部【話題提供】R.N
No.15我田邪馬台・岸和田OUEN説
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 30年程前になるが、某全国新聞泉州版に「邪馬台国岸和田説」が掲載された。以来忘れ去られて歳月が流れたが、現在どうなのかインターネットで調べてみた。

 取り上げた二つブログを総合すると“和泉市には池上曽根遺跡(弥生時代後期)がある。そこから南に下ると、岸和田市の山間に「山直(やまだい)」地名があり、全長200mの摩湯山古墳も近辺にある。さらには和泉黄金塚古墳から画文帯四神四獣鏡が出土し景初三年の銘があったことから、卑弥呼の銅鏡百枚との関連性が指摘されている。これらから「邪馬台国和泉・岸和田説」が唱えられたが、現在岸和田人しか支持しない”というものだ。
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処でこの間、学会においては邪馬台国の有力所在地は一箇所に収斂したか?・・否。

 未だに100年前の「畿内説」(内藤湖南)と「九州説」(白鳥庫吉)を引き継いだ二派に分かれたままで、多分100年後も論争は続くだろう・・・

 だったら日本各地がそれぞれの根拠を示して堂々と“我田に邪馬台を誘致”する挙に出る方が“地方創生の叫ばれる昨今”如何程か寄与するのでは!?

 そこで大阪在住の本調査隊員が敢えて「岸和田OUEN説」として新たな根拠を示す。
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件の「山直」地域は標高286m「神於山」麓だが、「神於山」を扇の要として泉州には二筋の直線的「鳥ライン」が存在する。すなわち@大鳥社⇒黒鳥山⇒神於山A鳥取⇒熊取⇒神於山だ。「神於山」を頂点に海岸線を底辺とするに二等辺△の中に、件の池上曽根遺跡、摩湯山古墳、和泉黄金塚古墳もちろん「山直」も入る。「大鳥社」は古代「太陽の道」の大阪湾涯に位置する。「黒鳥山」は現陸上自衛隊⇒帝国陸軍⇒譜代伯太藩まで遡り常に紀伊半島監視の「軍事拠点」だ。その要衝機能は何時頃の古代まで遡れるのかミステリーである!

 泉州大二等辺△に4つの砦と「神於山主城」で守られて“大規模な邑落国家”が存在したのは間違い無い。更に“邪馬台国東遷説”を援用すれば、岸和田にあった前期の「山直国」は何時の時か判らぬが、山を越えて三輪山麓に遷都し、後期の「大和国」に変容した。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】景観【年代】戦国【地域】茨木市【話題提供】L.Fontes
No.14イエズス会士が読み解く北摂キリシタンの里・千提寺景観に含まれる絵画的寓意

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 世界遺産では景観保全が重要視されるが、当然「お宝景観」は存在する。大正期に「マリヤ墓碑」を皮切りに「ザビエル肖像画」等多くの遺物が発見された北摂茨木の山間キリシタンの里・千提寺(左図)のレッドクロス地点に立ち「お宝」の隠された景観を眺めたイエズス会士Luis Fontes師(ザビエル長兄ミゲルの末裔)は、有名な「受胎告知図」(右絵)との類似を語った。名画は右にマリア(聖)、左に民草、左上に「神の座」を描き、絵画は中心に描かれた大天使ガブリエル捧げる「白ユリ」によって分かたれる。
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件の千提寺景観は、右に「上野マリヤ」「佐保カララ」墓碑の見つかった寺山(クルス山)、上(北)の高みに社(神の座)、左に集落、そして奥まった処にぽつんと「クルス山」を戦国以来400年山守するかのごとく、「百合太夫」と尊称された旧家が在る。

 室町期に叙事詩「ユリシーズ」が日本に伝わった際、主人公の名は「百合若」に替えられた。恐らく戦国時代に波濤を越えて北摂に現れた南蛮人「ユリウスorジュリアス・・」

も「百合若」「百合太夫」と変じたのではなかろうか?「百合」家の周辺の狭い範囲に「堂」「社」「寺」「城」と「泉」湧く地点も存在する。此処は右近領・五箇庄のCentro(千提)で、「南蛮寺」「病院」「seminário」とクルス山には「切支丹墓所」が在ったと推理される。
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400年保たれた景観だが、竜王山をトンネルで潜り抜ける「第二名神道」が北から真面に「クルス山」を通過する。そして左図(低)処にインターチェンジを築く為、既に地表は悉く剥ぎ取られた。「名神道」を道幅分東にずらせば、せめて「クルス山」は守れるのだが!・・・物語の重積する里山を地域の彩として活用し且つ後世に残し、“地球環境を元に復する”という世界的活動に沿う、21世紀に相応しい開発に方向転換すべきではないだろうか。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】城【年代】戦国【地域】茨木市【話題提供】K.K
No.13メゾン(Maison)と呼ばれた北摂の城

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 戦国時代に来日した南蛮人は、立ち寄った土豪の屋敷、小名の砦、中名の城、大名の城郭をどのように呼び、そしてその痕跡は今も残って居るのか?・・・北摂で調べてみた。

 その前にスペインやポルトガルでは、前述の屋敷・砦・城・城郭にどのような名称を与えているのかを整理しておこう。

  1. カーザ(Casa)・・・キリスト誕生の家は“Santa Casa”だが、大工ヨゼフの家だから、一般的には粗末な単層民家を指している。宣教師が都で布教の拠点としたあばら屋をCasaと記していることから、土豪の“砦”であっても見た目に単層で造作の無い作りなら「カーザ」と称しただろう。
  2. メゾン(Maison)・・・今日マンション等で“メゾネット”と称される住宅形式があるが、それは内部が二階建形式を指している。縦であれ横であれ二重構造を有する少し念の入った砦に見えたら「メゾン」と称した可能性がある。
  3. カスティーリャ(Castilla)・・・三層構造以上の望楼を備えた文字通り“城らしき”城であり、後世城内にワイン醸造所を作れるくらいの規模を有する。
  4. アルカザール(Alcázar)・・・その地域の中心に聳える王城で宮殿のような城塞。

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 戦国の北摂にこの分類を当て嵌めれば、高槻城・茨木城がCastilla、佐保クルス山城もぎりぎりそれに該当したのでは?・・・さて今回取り上げた「佐保城址」だが、街道を挟むように作られた複層の砦だ。さらに北に「免山」という集落が存在するが、そこの寺の名前が「北免山教願寺」であることに注目したい。つまり“Maisonの北にある寺”の意味と解釈できる。寺の南側に在る「佐保城」に立ち寄り、二重構造を目にしたルイス・フロイス達南蛮人が、“この砦は単純なCasaでなく、Maisonに該当”と評価した痕跡が2万5千分の1地図には掲載されてない集落の名前に南蛮文化の痕跡として残ったと推理される。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】石像【年代】江戸期【地域】朽網【話題提供】A.Goto
No.12奥豊後・朽網で崇拝されてきた山の神

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 国立民族学博物館が“鳥の形をした「山の神」は全国的にも珍しい”としてレプリカを製作した。奥豊後朽網で崇められてきた件の「山の神」(写真右)は男神・女神とも頭に鶏冠、背中に翼を持ち、男神は三つ目、女神は一つ目、口は歯を剥き出して威嚇、そして鳥脚のような手を胸や腹の上でX型に交差している。

 百鬼夜行図や妖怪図は古くから描かれてきたが、一体何をモデルにして“神として崇めるべき偶像”をかくも奇怪な姿に仕上げたのだろうか?これらの像を目の当たりにすると思わず首を傾げてしまう。

 試みにそのモデルを捜すと、戦国期に来日した伴天連が布教の備品としてイタリアから持ち込こみ、現在まで摂津茨木・千提寺のキリシタン旧家に伝世した「天使讃仰図」(写真左)に至るのかもしれぬ。その訳は朽網が日本八大布教地であり、ルカス朽網宗策のように熱心な切支丹領主が居た地域であること。さらに「山の神」の祭礼日が冬至日すなわちキリスト降誕祭頃に当たっていることが挙げられる。

 両者には確かに似通った点が有る。しかし果たして左図のような南蛮絵をモデルにして造形すると、右図のおどろしい“化け物”の姿が創作されるものだろうか?

 この近くにはNo.8話で取り上げた「洞窟で神と崇められる有翼人物壁画」も在ることから、その彫像との関連も頭を過ぎる“不可解なお宝”だ。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】南蛮【年代】江戸【地域】鎌倉【話題提供】光照寺
No.11北鎌倉・クルス門の光照寺の切支丹燭台

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 JR北鎌倉駅で下車し、小袋谷の街道を大船に向って500mほど戻ると“台”の丘に続く道が現れる。登りを200mも歩むと時宗・西台山光照寺の「クルス門」下に着く。階段を上って門を潜ると、中央見上げる欄間に件の「中川クルス紋」が掛かっている。

 紋章を現認して調査員が寺庭に入ると、「シャクナゲ寺」の異名を持つ庭の草木に住職が水を遣っていた。来寺の趣旨を告げると丁寧に寺と「クルス門」の謂れを語って下さった。・・・門に掲げてある紋章は昵懇の棟梁に作って貰ったレプリカ。以前切支丹研究者が来られた際、“不用意に掲げていると、その内盗まれるよ”との忠告を受けて本物は本堂に保管してある。台村の上に岡藩お抱え寺・東渓院が在ったが、明治維新の廃仏毀釈の中で檀家を持たぬ院は行き詰まり廃寺となった。その際、村人がえっさえっさと「クルス門」を運び降ろし当寺に据えた経緯がある。以来百年以上経ち門は虫食いが激しく倒壊の恐れがあったので形をそのままに作り替えた。

 調査員が東渓院縁の遺物を尋ねると、“脇侍仏は東渓院の本尊だった。切支丹燭台2本伝わっているが、別に寺宝扱いして居る訳でもなく本堂に転がしてある。”見せて欲しいと尋ねると、何と調査員の足元にごく自然に内陣の道具として置かれてあった。意外に頑丈そうな青銅燭台だ。“一本は七つ玉、一本は五つ玉の装飾が施されている。何十年も前になるが、外国人の大学教授が調べに来られ、その数にキリスト教的意味が有るとか・・・”

“当寺は昔から信教には寛容で、小袋谷村に多かった切支丹を庇護し、寺の御札を配った。そして宗門改めを受けたら「光照寺の檀家」と言え!と諭した。寺に居ては何を拝もうが、何処を向いて拝もうが構い無しとし、切支丹は燭台に蝋燭を灯すと襖に浮かび上がる十字架陰影を拝んだ。早速調査員は住職と共にその様子を試してみた。(写真左)

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】マウント【年代】古代【地域】大阪府堺市土塔町【話題提供】K.C
No.10「太陽の道」上に遺る土のピラミッド

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ピラミッド

 NHKが特別番組で「知られざる古代〜謎の北緯34度32分」を報じたのは、昭和55年2月11日建国の日だった。あれから40年経たが、この話題を再び取り上げてみるのも新たな「お宝」発掘に繋がるかもしれぬ。
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件の北緯34度32分に引かれた「太陽の道」は、伊勢・斎宮跡を起点⇒丹生寺⇒太郎生⇒室生寺⇒長谷寺⇒三輪山⇒箸墓⇒日置荘⇒大鳥社⇒(海越え)⇒蟇浦⇒伊勢の森(北丹町)に至る150キロに亘る“超古代”の道と言われる。この道筋上には“日を置く”に由来する地名もまた多いらしい。試に大阪南部の地図を大鳥社から東に辿れば確かに「引野町」「日置荘」挙句は「羽曳野」まで耳揃えて存在する。
                    ・
堺市中区土塔町に土のピラミッドがある。『行基年譜』によれば、727年(神亀4年)大野寺が創建され、その際に土塔も築かれたとされる。遺跡は一辺53メートル高さ9メートルの階段ピラミッドで、東西南北の正方位に位置し13重の塔だった。
                    ・
初期の仏教遺跡で間違いないであろうが、ピラミッドの緯度が正に「太陽の道」上、正確に示すと北緯34度31分55秒であることに“ミステリー”が有る。此処には四角台形錐の築かれる前に“崩れた盛土”の痕が存在したのではないか?仏教はそれを再利用して「経塚」を作った!・・・では“崩れた盛土”は何の為に在った?・・・古代出雲大社は太い大木で櫓を組み50mの高みに社を載せた事実もあることから、「土塔」にも高い櫓を支える円墳のような盛土が存在したのでは?・・・何の目的の「高い櫓」だったのか?・・・東の方向を辿れば「太陽の道」は「二上山」北肩のテラスを越えている。

「二上山」は山自体が城塞であった歴史があるので、肩の平坦部が何時削られたものかは判らない。しかし「土塔」地点に「高い櫓」を建てれば、その肩越に「三輪山の頂上で光り輝く大鏡の反射光線」を捉えることが出来たのではなかろうか?

【ジャンル1】出来事【ジャンル2】旅行【年代】文政【地域】広島県広島【話題提供】K.C
No.9頼山陽足止めの女

頼山陽頼山陽2

 一代の文人として名声を高めつつあった三十九歳の頼山陽は、文政元年(1818年)ほぼ一年に亘り九州を遊説して回る「西遊行」に出た。その途上の出来事である。

 山陽(左図)が居宅のある広島から「西遊行」すると聞いた旧知の画家・田能村竹田(右図)は、“是非とも故郷・豊後岡藩にも立ち寄って下さい。藩主もそれを心待ちにしております。どうか私の顔を立てて・・・”と申し入れた。

 それに対し山陽は、“色々な雄藩からもお誘い頻りでこの身は忙しい。貴殿の岡藩(など)にお邪魔する暇は無いだろう!・・・とは言っても他ならぬ君の頼みだから、立ち寄るだけは寄りましょう。・・・処で儂は「灘の生一本」を「京白川の水で洗ったような洗練された女」の酌でしか飲まんよ!“ときた。

 田能村竹田は、出来るだけの馳走(おもてなし)を請け合った。といっても海から遠い山間盆地のこと、“山の幸と川魚”主体の田舎料理に成らざるを得ない。日田天領に「沢の鶴菰樽」が在ると聞き、態々久住山麓を越えて受け取りに出向く侍も居た。

 課題は酌する「女」だが、画家の彼には目論見があった。“阿萱を酒席に侍らせ、高慢な山陽の鼻柱をへし折ろう・・・” 七里田の阿萱は、江戸期を代表する画家の審美眼で視て飛んでも無く日本人離れした容貌の持ち主だった。“阿萱に似た女を幾ら京で探しても居はしまい”と自信満々だが、果たして酒席の途中、替え酌の盆を持って階段を登る彼女を目にした途端、あんぐりと口を開けた山陽は“暫く豊後岡に逗留するよ”と決め込んだ。
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田能村竹田が山陽に頼まれて阿萱を描き、後日居宅に送ったとあるから、念入りに探せば芸州広島と豊後竹田に遺っているのでは?・・・見つかれば正に「お宝肖像画」だ。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】壁像【年代】戦国末期【地域】大分県竹田【話題提供】A..Goto
No.8奥豊後の洞窟に掘られた有翼人物壁画

008

 奥豊後は有史以前の阿蘇山火砕流で出来た分厚い溶結凝灰岩層で覆われている。

比較的柔らかな岩壁には400年前に数百の洞窟が掘られており、江戸幕府は岡藩が何にこれらの洞窟を活用しているかを調べる為に幾度も身を窶した密偵を送り込んだ。 
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これもその一つだが、洞窟掘削と同時に浮彫で有翼人物像を遺した珍しい例である。

周りには石の祠も並び、この人物像が周辺の住民から神として永く崇められて来たことに相違ない。

 しかしこの有翼人物像を目の当たりにすると “古代アフリカや南米のプリミティブな遺物を想起させる何とも不思議な彫像・・・”とのと或るコメントも頷ける。

 この顔と翼は、現代に続く日本人の発想する処のものか?・・・否!というなら400年前、この地にどのような人々が潜み暮らしていたのか?!・・・同じくこの近くに「山の神」と呼ばれる、これまた「有翼の一つ目・三つ目で鳥脚のような手」の立像が村々で崇められて来たが、それとも関係するものか?・・・と想像を逞しくさせてくれる逸物・・・一種の“オーパーツ”である。

【ジャンル1】出来事【ジャンル2】戊申戦争【年代】幕末【地域】兵庫県西宮【話題提供】S..Araki
No.7幕末長州勢の動向を不安げに注視する村代官の古文書

007

口語訳

手紙を以てお伝えします。・・・・・

昨日晦日(十二月末日)四時頃、何れの藩士か判りませんが、凡そ百人ばかりの

兵卒が門戸村の東一丁程の下大市村と申す処の百姓家に入り込み屯しておりました。

更に一丁余り西の甲山麓の上ヶ原村と申す処に、約七百名余りの兵卒が入り込み滞在していたが,指揮を執るべき騎馬武者は一人も居らず、只歩兵が銘々鉄砲を持ち居りました。

近くの浜へ蒸気船四、五艘が入り込み、上陸して罷り越した模様です。

専ら長州藩の兵卒との噂ですが、しかとは確認できません。

何分両方とも隣村での出来事ですので、まず此の状況をお知らせします。
                    ・
この手紙が出されたのは慶應4年正月一日で、鳥羽伏見の戦いが勃発する僅か二日前である。多分夕方の四時と思われるが、蒸気船4,5隻で尼崎浜に現れた長州勢一千余りが西国街道を急ぎ上京すべく武庫川西岸に集結していた。辺りには不穏な空気が漲っている。

長州勢とは林半七率いる奇兵隊であろう。奇兵隊は正月二日には入京し東福寺に本陣を置き伏見街道の守りに就いた。そして翌三日、薩長合わせて五千の兵力で大阪城から押し寄せた幕府軍一万五千と相対峙し、文字通り鳥羽伏見の戦いの火蓋を切った。

門戸代官の一筆は、一枚の白黒写真のように戊辰戦争最前夜の雰囲気を切り取っている。

【ジャンル1】美術工芸品【ジャンル2】位牌【年代】江戸初期【地域】大分県杵築【話題提供】A..Goto
No.6秀頼遺児「国松丸」と父子相伝された立石藩初代・木下延由の位牌

008-2006

 杵築市山香町大字立石の長流寺は、江戸初期に日出藩から五千石で分家した立石藩・木下家の菩提寺だ。調査員が“藩主家系に秀頼遺児「国松丸」と相伝された初代・木下延由の位牌を拝見したい”と申し出た際、住職は“その位牌を見に来られた方は17年ぶり”と答えられた。知る人ぞ知るが、一旦は忘れ去れたレガシーの一つだ。

         位牌表:江岸寺殿前□庭月測良照大居士

         位牌裏:木下縫殿助豊臣延由

 「豊臣延由」と刻まれている処が、この物語には欠かせぬポイントであろう。他に「豊臣」の穿たれた位牌が存在するのか確かめてみたい点である。

 しかしこの位牌を一見して、まず眼に付き意外性を感じるのは牌頭に載せられている

「図太いクルス紋章」ではなかろうか? この「クルス紋」は位牌だけで無く、寺修築の際、壁に隠された箇所からも発見されている。杵築市役所の方が“パウロ明石内記が岡藩から国松丸を日出藩に連れて来たのは公然の事実”と言われたことも意外な出来事だった。

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No.5豊臣秀頼家臣が大阪落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯

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口語訳

 慶長廿年乙卯五月七日大坂落城の際 秀頼公が御出馬されるとて 秀吉公より御伝来の

 金の百なり瓢箪の御馬印が御本丸を出る。此時諸士今時こそ御暇乞なりとて涙を流す。

 中でも五兵衛は御馬印に飛掛かり、瓢箪を引ちぎって瓢箪三ツを取得たり。

 終に落城に及び、五兵衛も退去す。依之 秀頼公へせめての御名残と存じ丸ノ内に

 三ツ瓢箪を家紋とす。大坂落城以後五兵衛は伏見に退く。因幡薬師辺に居住す。

 大坂落城時に籠城側に居た人物で尚且つ豊臣家馬印の金瓢箪の有様を記述した例は今まで二例ほどある。その一例は逃げ出す際“床に転がっているのを見た”という単純な噺。

 二例目は、侍女於菊が身支度して逃げ出そうとした際“打ち捨てられている金瓢箪を見て豊臣の恥と思い、足で踏みつけて粉々にした“という少々アクション付きの噺である。

 大坂落城400年にして今回見つかった秀頼家臣・村井五兵衛の大坂落城時武勇譚では、

 これがまったく異なり、もぎ取った瓢箪を持ち出すとともに村井家の紋を「丸の内に三つ瓢箪」に替えている。この人物の関係する奥豊後の地点を順に辿ってゆけば、今でも秘匿されている「豊臣家馬印・金瓢箪」の残欠に遭遇するかもしれない。

 そうなれば正に“お宝発掘”!

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No.4戦国時代の北摂・佐保クルス山城の主

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 北摂茨木市佐保に1999年“文化学園都市開発”に先立って発掘された「佐保クルス山城址」がある。城址はモノレール延線を期に取り崩されることになっている。

 発掘以前、茨木市史を書かれた郷土史家・免山篤師は、山頂に砦跡があることは昔から知られており、戦国期にこの辺りの寺院荘園を“御太刀風”を吹き散らして(刀を振り回して)蚕食していた悪党土豪の小砦に過ぎないと考えていた。

 処が17の廓を持ち、両サイドの尾根筋に防護用の深い竪溝を有する二百名以上が籠城可能な山城が現れた。この山城を築くには小土豪では歯が立たず、万石以上の領主が関与している筈だが、この周辺に該当する領主が見当たらなかった。

 従って茨木市史では今日に至るまで“築城者不明”とされている。
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戦国時代に茨木城主から播州三木を経て豊後岡藩主となった中川氏の家老・戸伏家に此の城に関わる物語が伝わっていた。岡藩七万石の中核には摂津安威領が存在した。

 その安威領一万二千石は織田信長の指図で、中川清秀の次男・秀成が名目上継ぎ居候のまま大名となった。更に地割の上で佐保を含む北摂五か庄は高山右近加領となった。

 しかし天下人となった秀吉は摂津全域を豊臣家蔵入地とすべく、中川・高山両氏を播磨へ転封。北摂四郡代官にキリシタン安威五左衛門了佐を摂津守に抜擢し茨木在城とした。

 この経緯から室町幕府崩壊後の短い期間、足利奉公衆だった安威氏を盟主に仰ぎ北摂八党四十家土豪(計一万二千石相当)が戦国独立を目論み佐保クルス山を本城とすべく小砦を拡張、17廓を備える本格的な山城に変造し山麓には地名として残る“馬場”を含め小城下を構築した。シモン安威五左衛門は秀吉に見出されて祐筆から奏者に取り立てられた上、茨木城で大坂城完成までの間「茶々」を預かるほどの信頼を得ていた。

 佐保クルス山は廃城となったが、その山頂に参集し“サンチャゴ”の雄叫びを挙げていた切支丹八党衆はシモン了佐に従い、茶々を護衛して大坂城奥庭衆となった。そして大坂落城の間際まで淀殿・秀頼・千姫らを護衛し続けた。クルス山は切支丹土豪夢の痕である。

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No.3摂津高山砦跡の背後に聳える「イシドロスの岡」

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 摂津高山盆地にあった高山右近誕生砦跡は写真(右)の高山小学校辺りと推定される。

 北摂最高峰は標高680mの「石堂が岡」として知られているが、正にこの高山の麓に「高山砦」は築かれていた。しかし何時の頃から“高山”が「石堂が岡」と呼ばれるようになったのか判らない。
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イタリア人歴史学者で日本史を研究するPetrucci氏(SienaのDoge家末裔)は、この謎に興味深い答を寄せらた。戦国時代に来日した宣教師は布教の手段として、その地で人気の高い聖人を選び出してアピールした。そして北摂を訪れたフロイス達宣教師は、この辺りで篤農家が大いに尊敬されることを知り、敢えて聖農夫「イシドロス」を布教の前面に出したのではないか?

 その結果、北摂最高峰でありながら固有名称を持たなかった高山砦背後の山は「イシドロスの岡」と命名され、後々「石堂が岡」に置き換えられた。だとすれば此処にも戦国南蛮渡来文化に基づく痕跡が残されている。

 ちなみに江戸期、「石堂が岡」山麓には三名の篤農家が現れ現在も顕彰されている。

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No.2伝豊臣秀吉が茶会で使用した赤楽鳳凰風炉

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 大分県竹田市の古田家(織部系統)菩提寺・高流寺には、”秀吉が茶会で使ったと言い伝わる「茶器」が伝世している。他に半世紀前まで当寺には『太閤秀吉肖像画』も伝世し、その後大阪城天守閣博物館に移された。
近年、豊臣秀頼家臣であり大坂の陣後豊州に下った赤座家古文書の解読から、豊臣家近臣・安威摂津守五左衛門了佐の縁者で秀吉の小姓だった八左衛門元勝が大坂落城時に肖像画を携えて豊州に下り、竹田盆地内の地獄谷に隠れ棲んだ。大坂牢人詮議のほとぼりが醒めた後に姿を現すと、秀吉肖像画を高流寺に納めたことが判明した。
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それまでは単なる”言い伝え”の域を出なかったが、秀吉が愛でた「茶器」も運び出され、やはり同時期に寺に納められた可能性は十分考えられる。
現物を目にすると、鳳凰が彫られた筋の部分に金泥のようなものが残っており、400年前の当初は全体が金色に輝いていたのではないか?と思わせる一品である。

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No.1桃の花見に訪れた淀殿より拝領の櫛箱

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 吹田市佐井寺の旧庄屋であった山脇家に伝来したもの。山脇家の遠祖は佐井寺出身の豪族(戦国武将)・山脇源大夫という。『中川史料集』によると源大夫は摂津茨木十二万石の領主であった中川清秀御内室(熊野田氏?豊中市熊野町の武将)の甥にあたるという。中川清秀が茨木城主となる契機となった「白井河原の合戦」において高槻方(和田惟政)の軍奉行であった郡兵太夫を討取る手柄をたてた。また、『常山記談』によると幼少より武名の聞こえが高く、甲州に行き、内藤修理(武田信玄の重臣・内藤昌豊)のもとにいた。帰国後、荒木村重の元で重臣として重く用いられたという。

 “村重謀反”の時の動向は詳らかではないが、戦後は中川家にしばらく隠棲。柴田勝家、丹羽長秀といった武将が一万石で招いたがこれには応ぜず、池田恒興(信輝)が礼を尽くして招いたので、池田家に仕えるようになった。池田家に仕えた源大夫は天王山・小田原攻め・小牧長久手・関ヶ原の戦いといった戦国時代を代表するほとんどの合戦に参戦。生涯に凡そ首九十八を挙げ、「首供養」を三度行ったという。最終的には二千石の重臣となった。岡山藩の資料を見ると代々“源大夫”と名乗る人物がいて、幕末、明治期までの存在が確認されている。
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 ところで、佐井寺の旧庄屋・山脇家の伝説によると『先祖は村重の乱の後、武士の世を儚み民間に身を投じた』という。おもうに源大夫の一族で帰農し、在地に残った一族が佐井寺山脇氏の祖と思われる。
さて件の櫛箱であるが、同家の伝えるところによれば『淀殿が佐井寺に桃の花見に訪れた折、褒美として拝領』したものという。詳細については不明ながら、北摂の土豪と豊臣家との関係を窺い知る資料といえるのではないか。

 

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