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お宝・古文書調査隊 報告記事 vol.2 No.21-40
お宝・古文書調査隊

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【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】洞窟【年代】戦国【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.40キリシタン洞窟礼拝堂

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 江戸時代、武家屋敷が軒を連ねていた殿町通りから南へ小路を入ったすぐ東側の岩壁に、キリシタン洞窟礼拝堂は在る。しかも当時の家老・古田家の敷地内とも言われている処だ。
 「日本切支丹宗門史」の記事に1617年、"神父ナバロは、久しく洞窟に隠れていたが、ここを出ると再び熱心に布教に従事した。ブルドリノ師が伝道に従事した地方、シンガ(志賀=竹田)の殿の重臣は、神父の居場所を知りながら目を閉じていた。"とあり、神父が隠れていた洞窟が此処とされている。重臣とは古田重治で、キリシタンであったという説もある「古田織部」の子孫だ。
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 洞窟の構造様式は、ローマにおいて14世紀頃に作られた洞窟礼拝堂に良く似ている。外観は、中央が尖頭状のドーム形に掘られ、中央部に出入口があり、その両脇に長方形をした明り取りの窓が設けられている。
 内部は、約3m四方の広さがあり、天井は尖頭状のドーム形で高さ3m。奥壁には祭壇状の彫り込みがあり、周囲に三和土が塗られ金色に輝いているように感じられる。
確かに、写真右のサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の両脇の入口と上の丸い明り取りの位置を上下逆にすれば、写真左の配置に似てくる。また五画形の彫り込みは竹田城下町だけで百か所近く存在する洞窟の多くに見られる形状だ。それも写真右のフィレンツェの最も有名な教会入口に似ている。
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 最後にナバロ・ブルドリノら伴天連達の運命を記しておこう。シンガの殿(中川久盛)は彼らを城に呼び出し、故国に無事帰れるよう手配することを申し出た。しかし彼らは禁教下の厳しい布教に従事し殉教する道を選択、竹田城下を去っていったのだ。恐らく藩主・久盛は天守で見送り、古田重治始め多くの切支丹善男善女は冬の最中のNo.24干十字架残欠の丘で見送っただろう。彼らが伴天連に投げ掛ける最後の言葉はこれしか無い・・・
Quo Vadis!  (あなた方は 何処へ 行かれるのですか?!)

【ジャンル1】美術工芸品【ジャンル2】石像【年代】戦国末期【地域】大分竹田【話題提供】A.Goto
No.39達磨堂に仕舞い込まれていた?・・・聖ヤコブ石頭

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 左図は、サンチャゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ像だ。そして中央写真は昭和36年、キャッチボールの球が逸れて谷へ捜しに下りた少年が「岡城西の丸」の真下で見つけたヤコブの石頭である。これがどうして急斜面に引っ掛かっていたのか、経緯はまったく不明で、西の丸石垣上には不浄蔵が存在したことから、明治維新後の廃藩城破却の際に投げ捨てられたようにも思える。
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 ヤコブ石像の髪形といい、顎髭といい、日本人の手によって彫られたものには見えず、 戦国時代の南蛮貿易を通じて布教目的で持ち込まれたものだろう。リスボンからの輸出品記録には、"ギリシャの石像"が含まれていた。左写真のような等身大のヤコブ石像がギリシャ⇒リスボン⇒インド・ゴア⇒マラッカ⇒澳門を経て、長崎か直接大分・三佐湊辺りに陸揚げされたと考えられる。そして志賀親次か次の中川秀成の時代に竹田盆地に運び込まれて、現在の竹田駅裏に岩下火伏稲荷社として残る最大規模の洞窟礼拝堂に安置されていたのではないか?盆地内には数多くの五画形をした洞窟礼拝堂跡が遺こるが、等身大石像を安置できる洞窟ともなれば限られてくるからだ。或いは現在トンネルと化して突き抜けてしまった大規模な洞窟が存在したのかもしれぬ。いずれにせよ禁教の時代を迎え、ヤコブ石像は首刎ねられたが、胴体部が何処に棄てられたのか見当も付かぬ。
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 処で江戸期を通じて広大な岡城敷地内の愛宕谷には、小さな観音堂と達磨堂が在った。そして維新後に観音堂の床下から掘り出されたのが「No.37サンチャゴの鐘」だ。では達磨堂には一体何が仕舞い込まれていたのだろうか?・・・ここで一つの試みとして、ヤコブ石頭の頭髪部と顎髭部を赤く塗ってみると、七転び八起きの「赤い達磨」のように見えて来る。「サンチャゴの鐘」が切支丹遺物なら、ヤコブ石頭も紛れも無く切支丹遺物。案外 "達磨大師"に化け、観音堂と並んで大事に奉られていたように思えるのだが・・・・。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】鐘【年代】戦国【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.38サンチャゴの鐘

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 サンチャゴの鐘は、竹田市中川神社に伝わる銅製の1612年慶長17年)に制作されたキリシタンの遺物であり、1950年(昭和25年)「銅鐘」という名称で国の重要文化財に指定されている。
 銅鐘は、高さ80.5cm、口径66.0cm、重量108.5kg。舌(ぜつ)は失われている。表面に十字の紋と「HOSPITAL SANTIAGO 1612」の銘文が陽刻されており、この銘文から長崎にあったミゼリコルディア(慈善院)附属のサンチャゴ病院の鐘であると考えられている。サンチャゴ病院は、レオン・パジェスが著した『日本切支丹宗門史』に「聖ヤコボの病院」として記述されている(「サンチャゴ」はスペイン語・ポルトガル語、「聖ヤコボ」はラテン語で、ともにヤコブのこと)。サンチャゴ病院はミゼリコルディアとともに1620年(元和6年)に破壊されている。
 2011年末から、オリジナルと同じ音色の複製を制作するため九州国立博物館によってサンチャゴの鐘の成分分析が行われ、組成は銅87%、スズ8%、鉛3%、鉄2%であることが判明。鉛同位体比の測定結果が日本産鉛とタイ産鉛の中間値を示しており、当時は国内産の鉛が不足してタイからの輸入が行われていたことから、産地は不明であるものの、日本において国内産の鉛をタイ産の鉛を混合して制作されたのではないかとの推定されている。
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 まだこの鐘にミステリーは残る。或るイエズス会士は"当時の長崎にこの大きさの鐘を吊るせる規模の建物は無かったのではないか?"と指摘している。鐘の出自を追って再び迷路を彷徨うことになりそうだ。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】石碑【年代】戦国【地域】大分朽網【写真提供】A.Goto
No.37朽網・原のINRI石碑

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 竹田市直入町長湯温泉郷から久住連山へ向かう道沿いの丘に「原のキリシタン墓碑」と呼ばれてきた石碑は在る。干十字架の最上部であり、全面に『INRI』が明確に線刻されている。同様のT型石碑をNo.24干十字架残欠の丘でも紹介したが、それに『INRI』線刻は無かった。戦国時代の八大布教地だった豊後・大分ではローマ字の刻まれた石板残欠は数多く発見されているが、これほど完璧に線刻の遺る石碑は稀であり正に逸物である。
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 1562年のイエズス会士の書簡に"豊後府内より9レグア(約50km)」の朽網に名をルカスというキリシタンあり、甚だ良き大会堂を建設し、石の大十字架を建て、己の死したる時十字架の下に埋葬せんことを命じたり"とある。この石碑はルカスの墓の上に建てられた十字架の上部ではないかと言われている。因みに石碑の在る原の尾根筋上に「梅墓」なる大規模な切支丹墓地跡が見つかっており、ルカス・朽網宗策家臣団の墓所と推理される。
 或いはそこに建てられていた石の大十字架は人知れず倒れて、其処に埋まっているのかもしれぬ。最上部の『INRI』線刻「石の棄札」外れて、長い年月の後に尾根裾まで下り落ちて来たのだろう。
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 地元調査員の方に『INRI』石碑の見つかった"原"の景観を良く示す写真(右)を送って頂いた。碧空の下、雪を被った大船山、凛とした風を感じる。この道をザビエルもフェルナン・トーレスもアルメイダそしてフロイスも歩んだであろう。
伴天連も  仰ぎて観しや  寒久住   (K.K)

【ジャンル1】人物【ジャンル2】女性【年代】戦国【地域】大阪市【話題提供】K.K
NO.36大坂城内に国際ハーレムは在った!?

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 豊臣秀頼の側室として、長女・奈阿姫母・成田五兵衛女、国松丸母・渡辺五兵衛女が良く知られているが、江戸期の旅行案内書「摂津大成」や「慶元記」に記載されている側室をすべて列記すると6名になる。因みに太閤秀吉奏者・安威摂津守了佐女・於あい殿は両書ともに記載されており、その存在は確実と言ってよい。しかし於梅・於松・於竹の三名は松竹梅セットの名前のみで係累の記載は無く存在の真偽は怪しい。故に小石・和期・於あいの三方に限定して"素朴な疑問"を調べてみよう。
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 まず、大坂城奥庭に顔を出す名前すなわち安威、渡辺、三宅、村井とも北摂土豪である。大坂城奥の豊臣一族生活空間は、築城まで茨木城に留まっていた茶々の衛兵を勤めた城代・安威摂津守に率いられた北摂土豪衆がそのまま奥庭衆に格上げされて長く仕えていた。淀殿を桃の花見に招いた吹田・山脇氏や千姫の囲碁の相手に興じていた豊中・原田氏の古文書が遺っており、和気藹藹たる雰囲気で女性達は奥庭衆には気を許していた気配がある。そして秀頼の側室となった女性達も乳母も全て摂津家臣団から差し出された可能性は高い。
 二つ目、不可解なことに三名の側室の周りに三名の"五兵衛"が絡んでいることだ。 当時、"五兵衛"とはそんなにも有り触れた名前だったのか?!
 三つ目にして最も不可解なるは、渡辺・安威・三宅・村井氏とも南蛮人DNAを一族に取り込んだ痕跡を持つ族党であることだ。因みに渡辺・三宅・村井は今日までクルス紋章を伝世している。中川久清(津久丸)の肖像画は日本人離れし、渡辺ルイサの墓石は180cmもある。イタリア・シエナのPetrucci家は早々と北摂に現れたが「小石」の意味だ。
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 大坂城内の何処かに"五兵衛"という"コードネーム"を持つ南蛮エージェントの関与した「国際ハーレム」が存在し、小石(Petorucciの方)も和期も於あいもインド・ゴアから密かに連れてこられた中近東〜南蛮系の女性達ではなかったのか?・・・
 処で伊達政宗には、"彼自身南蛮の血を引き"オドアイ"の片目を眼帯で隠していたと共に、訪れた南蛮宣教師と二人だけで会話できる異国の側室がいた"との噂譚がある。
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 大坂の陣は、国際的な視野で眺めれば「カトリック」と「プロテスタント」の代理戦争でもあった。そして半世紀遅れてリーフデ号で乗り込み、徳川家康に取り入った二人の「プロテスタント」に「カトリック勢力」は15年間押しまくられていた。それを挽回する"起死回生の手立て"とは何だろうか?・・・対抗勢力の胎内深く卵を沢山産み付け、孵化させて中を食い荒らして空洞化し乗っ取る策!・・・これに軍人の影は最終局面までは邪魔でしか無く、異国趣味で着飾った女性軍が最良の武器となろう。幕府はそれを認識していたからこそ大坂城を更地にするまで、或いは千姫を犠牲にしてでも滅ぼさねばならなかったのではないか?その後徹底的にカトリック勢力を排除し厳格な鎖国に至った経緯もそれならば理解し易い。つまりカトリック勢力は植民地化の為の奥の手を使った。
 フイダイア(インカ帝国の王名に聴こえるが秀頼を指す)は身の丈八尺強、カリスマを感じさせる貴人の雰囲気を湛え、並ならぬ知識と判断力を有していた。しかし、彼もまた南蛮人に最大の弱点を狙われたのではないか?・・・植民地にされた諸国の王同様に!

<参考>
No.34イタリア・シエナのPetrucci家が戦国の北摂津に現れた次第
No.31中川久清ミステリー(2)〜大名ギネス二冠王
No.35摂津・渡辺水軍所縁の岡藩の女性ルイサは南蛮血統?
No.1 桃の花見に訪れた淀殿より拝領の櫛箱
No.4 戦国時代の北摂・佐保クルス山城の主
No.5 豊臣秀頼家臣が大坂落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯
No.6 秀頼遺児「国松丸」と父子相伝された立石藩初代・木下延由の位牌

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】墓石【年代】江戸【地域】大分佐伯【話題提供】竹田市
No.35摂津・渡辺水軍所縁の岡藩の女性ルイサは南蛮血統?

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 大分県佐伯市宇目には豊後岡藩の飛地があり、鉛を産出する木浦鉱山があった。大正時代末期、地元の渡辺家が植林の際、偶然地中から掘りだしたのが、畳一枚はある逸物で、没年月日(元和五年)・洗礼名(ルイサ)・日輪章の彫りこまれた墓石だ。
ルイサとは岡藩士・渡辺興吉郎の娘で宇目の同族・渡辺善左衛門に嫁いだ女性だった。
 「日輪章」は何処にも尖った処無く曲線のみで象られた実に見事な"キリシタン紋"だが、最も目に付くは墓石の巨大さそのものだ。こんな大きな墓石は他で見たこと無く、朽網・梅墓の物は半分のサイズ。ルイサが、この墓石の大きさに相応しいだけの大柄な女性だったならば身長1m80cm近くあった。当時としては珍しい日本女性か、或いは南蛮人の血を受け継いだミステリアスな女性だったのかもしれない。墓碑からルイサは天正十八年(1590年)、豊後ではなく播州三木の生まれと判るが、その時父・興吉郎二十歳台後半とすると、彼は南蛮人が丁度摂津に現れた永禄八年(1565年)頃の生まれに当たる。
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 岡藩渡辺氏は摂津渡辺水軍の系統で、中川氏の幕下に入り播州三木を経て豊後へ下った一族だ。摂津に留まった渡辺党には豊臣家臣として知行千石を食み槍の名手と謳われた渡辺糺が有名だが、秀頼との間に国松を生んだ側室・和期の方の父・渡辺五兵衛も居る。そしてルイサに伝わった南蛮人DNAの受け継ぎ場所が永禄の頃の渡辺氏本貫地「摂津渡辺津」付近ならば、戦国最終局面の推理は大いに拗れてゆく。摂津渡辺党には興吉郎含め紅毛碧眼の侍が大勢居たHypothesis(歴史仮説)が有り得るからだ。糺も和期の父・五兵衛も!

【ジャンル1】人物【ジャンル2】南蛮【年代】戦国【地域】大阪茨木【話題提供】M.Petrucci
No.34イタリア・シエナのPetrucci家が戦国の北摂津に現れた次第

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 戦国北摂で"御太刀風"を以って寺院荘園を蚕食し、萩谷(高槻)・大岩(茨木)・野間(能勢)と広範囲に勢力を拡げていた上笠党に"シエナのペテロが一族に入り込んだ"なる噺が伝わっている。ペテロはありふれた南蛮名で特定は無理か?と思われたが、イタリア・シエナにPetrucciというDoge(共同総督)家が存在した。Petrucciとは"小石"の意味とある。
 1555年、中世通じて好敵手フィレンツェ・フランス連合に敗れ、700家の貴族はトスカナ州南端の支城モンタルチーノに籠城。しかし矢折れ弾尽きて1559年開城した。
 その際、最後まで残った家々はどうしたのだろうか?一方の共同Doge・Visconti家にはセーフティネットが在った。Petrucci家とクリエンテスは地中海に逃れてポルトガルに脱出、シエナ国再興を期して"金銀"を求め、イエズス会の案内で波濤を越えて極東の日本に到達、そして北摂に現れた。尾羽打ち枯らした姿に"悪党"上笠党もほろりと手を差し伸べ、碧眼の郎党が誕生した・・・というのが昔譚の推理だったが、最近になって大分違っていたことが判ってきた。
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 Petrucci家は13世紀からの系譜が判っており、商人・軍人・政治の万能家だった。 商人としてのPerucci家は早くからフランス・スペイン・ポルトガルに分家を有し、家では様々な言語が混ざっていた。大航海時代の先駆けとなり一早く海上帝国を建設したポルトガルのJiovanni Petrucciは1519年その首都インド・ゴアに進出していた。つまり日本まで一跨ぎの処に陣取っており、イタリアから逃れてきた残党を吸収しゴアでビジネスを手広く展開していた訳だ。
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 では、何故北摂に照準を合わせてきたのか?恐らくイエズス会の情報により、京の近くに"極東のポトシ"とも言える大鉱脈が北へ続くことを知っていたからだ。その入り口が茨木・佐保クルス山。暫くして中河原辻から篠山八上に続く街道沿いに「クルス紋様」がばら撒かれ、善男善女を南蛮被れに誘う"キリシタンえーじゃないか"が起こった。撒かれた「クルス紋」は北摂から遠く九州の山の中に追われた中川・豊後岡藩に四百年の時を越えて温存された次第だ。

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【ジャンル1】造庭【ジャンル2】池【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.33秀頼の実父は古田織部息子四人の中に居た?

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 No.32織田血筋の見届け役?〜平手清兵衛が豊後に下った訳に紹介した元秀頼家臣・大坂籠城三家が隠れた竹田盆地の"久戸谷の詰まり"に燻り続けた譚を真面目に取り上げる時期が、古田織部一族400回忌の今年来たようだ。
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 大坂の夏の陣終結直後、古田織部は大坂方内通の咎で捕えられ一言も釈明せずに自害した。息子四人(重尚・重広・重行・重久)も殺され、古田家は断絶した。その理由は幾通りか挙げられているが、織部父子全員葬るにはいささか腑に落ちぬ。
 "織部が徳川と豊臣の間を取り持とうと務めたのは、四人の息子の中に秀頼の実父と成った人物が居たから"譚が奥豊後の岩壁密封盆地の中の、これまた長く深い谷の"詰まり"に燻っていた。それに纏わる何の証も示せない内は"跳び過ぎた"譚に過ぎなかった。
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 処が古田織部一族400回忌の今年一月、岡藩家老だった古田織部系統の末裔から竹田市に興味深い申し入れがあった。・・・"竹田市郊外植木の古田屋敷(2ha)内に三代藩主・中川久清が、大坂内通咎で謹慎中の古田家に掘らせた全長90mの瓢箪池が遺っている。"
 この情報に接し、当調査員はグーグル地図で数百年も忘れ去られていた巨大な池を捜しまわった。水が抜かれて久しく雑草の茂った池跡を見つけるのは容易でない。しかし古田家が示した地図を頼りにそれらしき地点をやっと見つけることができた。後日現地を訪ねたが、竹田から久住に向かう県道47号線から一段高い丘の上に在る為、広大な屋敷の外から伺い知ることは長い間不可能だったのだ。
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 No.30中川久清ミステリー(1)に示したが、久清は馬印金瓢箪と共に秀頼家臣・村井五兵衛に助け出された遺児の可能性が高い。その久清が蟄居させた織部系統に与えた屋敷に豊臣家馬印たる大瓢箪池を作らせていた。久清と古田氏は池畔に佇み何を語らっていたのだろうか? 因みに秀頼が古田の血筋であれば、中川清秀の妹せんの血を引くことから、久清は二代藩主久盛の子で無くとも廻り回って中川一族の血統を受け継いだことになる次第。

【ジャンル1】古地図【ジャンル2】配置【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.32織田血筋の見届け役〜平手政秀系統家が岡藩に下った訳

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 岡藩諸士系譜「大坂落城以後被召出輩記」に平手政秀系統の平手清兵衛が密かに豊後へ下って来たことが書かれている。岡藩・中川氏は清兵衛に五十人扶持を取らせるとともに岩壁で密封されている城下竹田盆地の中でも最も深い谷の奥「久戸の詰まり」に屋敷を与えた。処が古地図を調べると、「久戸谷詰まり」には元豊臣秀頼家臣・大坂籠城者が三家も押し込まれており、しかも常に中川勢先鋒を勤めた中川平右衛門下屋敷で取り巻かれていることが判明した。この配置には遠い昔の深い謎が隠されている。
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 平手政秀が織田信長の守役だったことはつとに有名だが、その系統もまた織田血筋の守役だった。織田有楽斎の正室は"平手の方"である。そして豊臣大坂城には織田血筋の淀殿と千姫の従者として平手氏は幾人も入城した。そして件の平手清兵衛は淀殿の従者だったと考えられる。千姫従者であれば、姫とともに徳川秀忠の陣幕まで同道した筈だ。主人・淀殿の自決で行き場を失ったもののNo.27大坂籠城者レスキュー作戦で救出された一人と考えるのが妥当だ。しかしもう一つの興味深い見方がある。
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 豊後には二人の秀頼遺児に纏わる噺が伝わっている。一つはNo.6秀頼遺児「国松丸」と父子相伝された立石藩初代・木下延由の位牌、二つ目はNo.29中川久清ミステリー(1)で紹介した。平手清兵衛は淀殿と千姫より、「国松丸」と「津久丸」の二人の幼児を助け出し、成長を見守り、且つ成人の暁には相応しい位に就くまで、しかと見届ける役を命じられていたのではないか? だから淀殿とともに果てる道を選ばず豊後へ密かに下った。
結果を述べれば、「国松丸」は日出藩から分離した立石藩初代・木下延由となり、「津久丸」は岡藩三代藩主・中川久清に化けた!勿論その裏には、織田血筋にして浅井血筋長者となった千姫の意向が隠れている。北摂山間に匿われていた「津久丸」が捜し出され、突如、中川久盛の継嗣に迎えられたのは大坂落城六年後であった。

【ジャンル1】人物【ジャンル2】出自【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.31中川久清ミステリー(2)〜大名ギネス二冠王

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 世に大名ギネスブックなるものがあれば、中川久清は2冠王に輝くだろう。
 第一冠目は中川久清ミステリー(1)の冒頭に掲載した彼の墓・入山公墓だ。岡藩歴代藩主の菩提寺は竹田盆地内の碧雲寺だが、第三代久清はどうした訳か、そこには無い。
 そして、久住連山・大船山1400mの高見に彼自らが造営した。この墓の標高は大名墓の中で最高地点にあり、言わば全ての大名を"上から目線で見下している"ことになる。
 それにどういう意味が込められたのか、無いのか?其々の判断に任せるしかない。
 唯竹田市の調査によれば、入山公募の墓石は大坂城の方向を向いているとのことである。
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 第二冠目は彼の特異な容貌にある。彼の肖像画はインターネット上の噂で、最も"イケメン"大名に挙げられているからだ。調査員は40年前のとある本屋での経験を覚えている。 "全国三百諸侯名鑑・・・"なる新版書を手に取ったのだが、各大名家紹介の冒頭に代表的な殿様の肖像画載せられていた。"我本籍の殿様は如何に?"と何も期待せずに捜したのがいけなかった。現れたのは規格外れに巨大な目を持った男だった。刹那驚くとともにバビロン辺りで発掘された"丸い大きな目の塑像"が頭に浮かんだ。それに続き"もっと普通顔の殿様を選べなかったのかい!?"と義憤すら湧いてきた。しかしその時は、何時の時代の何という名の殿様か調べる興味はまだ持ち合わせてなかった次第。
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 彼の肖像画は三枚も遺されており、絵師の"この特異な容貌を書き残すぞ!"との気合いが伝わってくる。彼の容貌を記述したものは無いが、娘・兼姫の容貌の記述が遺されている。"父に似て抜けるほどの白さで、重瞳を持つ"・・・重い瞳とはうまく言ったものだ。
 目といい鼻といい、父・久盛、祖父・秀成ともかけ離れており、実母・松風院於初すなわち「安威の方」が跳びぬけて日本人離れした容貌を持っていたのは間違いない。この疑問にシエナ出身PETRUCCI氏はずばり指摘した。"中東の女性もしくはユダヤ人!"と。

【ジャンル1】人物【ジャンル2】出自【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】竹田市
No.30中川久清ミステリー(1)〜不可解な出自

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【口語訳】中川氏御年譜 第五世 久清公
慶長二十年乙卯 正月十日、城州伏見にて誕生、実母は安威忠右衛門の娘
公儀へは、母は松平隠岐守女で、誕生地は豊後岡と届けた。実母・松風院のことは一切表向きの沙汰にはしないことにした。
久清公がご誕生すると松風院於初は暇を出され、京に棲む浪人・上野角左衛門へ嫁し、安威五郎左衛門が出生した。(久清と五郎左衛門は兄弟に当たる)
元和五年巳未、上野角左衛門が亡くなったので、父・安威忠右衛門が三名を引き取った。
六歳の御時、父・久盛公は粟生兵慶に、久清公がどのように成長したか、を調べさせた。
粟生は"その容貌天晴にして御逸物!"と報告した。
久清の幼名は"津久"とあり、元和年中は村井五兵衛が一切の面倒を仕切っていた。
久盛公より御内意を以って、於津久様は伏見屋敷に上がることになった。・・・・・
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 以上をまとめると、大坂の陣最中の正月十日に安威於初が産んだ"於津久"は誕生早々に人目から遠ざけられて、以後六年間、村井五兵衛が守役を務め、安威氏と上野氏の許で養育された。処で話題"No.5豊臣秀頼家臣が大阪落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯"が示すように村井五兵衛とは"豊臣馬印金瓢箪"を携えて逃亡した大坂牢人である。安威氏には秀吉・秀頼に仕えた摂津四郡代官にして奏者だった摂津守・了佐がいる。不可解なことに人目から隠して「於津久」を六年間養育していたのは"大坂牢人達"なのだ。
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 奇妙なことはまだある。安威於初が久盛の胤で身籠った筈の慶長十九年中、当の久盛は"江戸城石垣普請"に負われて京・大坂には居なかった!
 さらに大坂城内玉造の安威殿坂には秀頼側室「於あいの方」が棲んでいた記録がある。 側室・安威の方と赤児は"No.27大坂籠城者レスキュー作戦"で助け出され、誰の指図か判らぬが、六年後に中川久盛が継嗣として引き取るまでの間、北摂の佐保・千提寺近辺に潜んでいたと考えられる。何故ならそこが村井五兵衛と上野角左衛門の地元だからだ。

【ジャンル1】紋章【ジャンル2】由緒【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】T.O
No.29真田大助救出譚〜三つ瓢箪に六文銭を封じた噺

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 "No.5豊臣秀頼家臣が大阪落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯"の主人公・村井五兵衛は、"瓢箪を引ちぎって瓢箪三ツを取得たり。終に落城に及び、五兵衛も退去す。依之 秀頼公へせめての御名残と存じ丸ノ内に三ツ瓢箪を家紋とす。"と記述されているが、それに纏わり、"三つ瓢箪に六文銭を封ず"との伝承がある。その謂れが五兵衛の後を継いだ「六兵衛」なる人物の不可解な去就にある。五兵衛は長男・三男を村井家から放り出し、件の人物を「六兵衛」として継がせている。処が「六兵衛」は不娶のまま、村井家を元の血筋に戻した。「六兵衛」とは"No.27大坂籠城者レスキュー作戦"によって脱出した"六文銭の兵衛"=真田大助であり、身を隠す為に家を譲られたが、そのままでは潔しとせず、「真田」姓を再興したかったのではなかろうか?因みに村井家は大坂城玉造門を守った四千石豊臣旗本で、"従五位下"の真田氏と同格だったことが判明している。
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 何時の頃か判らぬが、岡藩城下の南西一里の中尾八幡社の周囲に"真田"姓の集落が出現し今に至っている。社の石碑には「真田正幸・博幸」等の名が刻まれており、少なくとも調査員同様"真田ファン"の集落であることは間違いないようだ。
 件の「六兵衛」は九十歳を超える長寿を全うし十川に葬られたが、戦国武将で最も有名な長寿者は"真田信之"だ。真田氏は長寿のDNAを持った家系と推察される。

【ジャンル1】人名【ジャンル2】戒名【年代】江戸初期【地域】鎌倉【情報提供】大徳寺
No.28養源院・浅井長政起源のお宝法名(戒名)を名乗った人物

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 文禄三年(1594年)、淀殿が父・浅井長政の供養のために創建したのが京都市東山区の養源院。後に徳川秀忠の正室・崇源院(於江)によっても再興された。その浅井長政の戒名は"養源院天英宗清"である。
 三代将軍・家光は就任直後、養源院・長政に"従二位中納言"を追贈し、浅井血統を高らしめて徳川氏の菩提所となった。だから上京した諸大名は皆、養源院へ参拝したのだが、此処は徳川に敵対した淀殿と秀頼の菩提寺でもあるのだ。
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 浅井長政戒名の"天英"を名乗った人物に、六代将軍御台所・天英院熙子居るが、"天英"は将軍家の血筋に纏わる「お宝法名(戒名)」と見做され憚られた。
 処が不遜にも、「天英宗伍」と名乗った臨済の僧が居たのだ。因みに"宗"なる字は、大徳寺派の法名の70%に含まれている。
 「宗伍」と名乗る弟子に法名"天英"を授けたのは鎌倉の僧「鉄舟宗鈍」だが、彼の後を継いで「天英宗伍」も臨済宗大本山・大徳寺の住持に収まっている。
 大徳寺住持は徳川幕府が任命する仕来りであり、幕府は"天英"を名乗った「宗伍」が"浅井血筋"と認識しており、珍重して大徳寺住持にも任命した!と推理する。
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 「天英宗伍」は豊後岡藩の出身で墓は歴代藩主菩提寺・碧雲寺にあるが、三代藩主・久清が北鎌倉「東慶寺」の隣に造営した「東渓院」の住持に赴任している。
 「東慶寺」とは浅井血筋で秀頼遺児「天秀尼」の幽閉され葬られた寺だ。
 浅井長房なる人物が姉・淀殿を頼って大坂城に寄食したのだが、大坂落城後に彼の係累で豊後岡藩に逃げ込んだ人物が居たのではないか?それに連なる僧「天英宗伍」を三代藩主・久清は重用し、鎌倉「鉄舟宗鈍」の許に修業させた。・・・何故か?浅井長房〜天英宗伍〜天秀尼〜久清の間に血に纏わる謎が秘められている。

【ジャンル1】出来事【ジャンル2】経路【年代】戦国【地域】摂津【情報提供】K.K
No.27大坂籠城者レスキュー作戦
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 豊後岡藩諸士系譜を調べると、元豊臣秀頼家臣と書かれた氏が少なくとも四家(平手、赤座、村井、安威)ある。安威八左衛門は秀吉小姓だった人物で、太閤肖像画を携えて脱出した。(元竹田市高流寺⇒現大坂城博物館所有)村井五兵衛は豊臣家馬印・金瓢箪三つを?ぎ取り持ち出した。(No.5豊臣秀頼家臣が大坂落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯)平手清兵衛は織田信長守役・平手政秀の系統である。                      ・
 処で竹田市役所戸籍住民票係を担当した歴史好きの職員で、世帯数1万五百戸にしては大坂籠城側に名を連ねた武将名が多いことを奇妙に感じる人が居た。 すなわち上述の平手・赤座・村井・安威に続き、赤星・渡辺・毛利・明石そして真田氏も現に存在しているのだ!そればかりか三代藩主・中川久清の実母・松風院於初(安威の方)は大坂の陣最中の正月十日、伏見にて津久丸(久清幼名)を生んだとされるが、秀頼側室・於愛(安威殿の方)と同一人物である可能性が高い。何故なら岡藩家老・戸伏家から同族の大坂城高官・安威摂津守了佐の許に養女が送られていたからだ。
                   ・
 大坂の陣より遡ること三十余年前、大坂築城に先立ち豊臣秀吉側室となった茶々(淀殿)は伏見城から茨木城へ移され、摂津四郡代官にして茨木城代・安威了佐が預かった。その際、北摂土豪衆で護衛隊を組織したが、隊は淀殿に従って大坂入城、そのまま豊臣大奥を守る奥庭衆に化けていた。その時点で"北摂衆は大いに出世した"と言え無くも無い。
 さて、秀吉が摂河泉を蔵入地とすべく、高槻・高山右近と茨木・中川秀政を播州に転封させた折、北摂土豪衆は一族を三手に分け、高山家臣、中川家臣そして安威了佐に従い豊臣家臣とすることで、戦国生き残りの為のリスク分散を行った。
 果たせるかな、早くも天正十三年に高山右近は改易処分となり、その家臣団の多くは中川と安威の許に再仕官した。そして慶長二十年大坂落城とともに豊臣家臣団は崩壊するが、 その際、安威了佐に率いられた元北摂土豪衆は計画的な"大坂城レスキュー作戦"で救出されている。その脱出経路を赤線で示しているが、この計画の裏には夏の陣前に大坂城を退去した織田有楽斎が関与しており、大坂城北方の織田・味舌領を通過している。さらに大坂城天守の北辰を目指し、五家荘(右近旧領)で六年匿われた人物も存在する。  
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 中川・豊後岡藩は御用船を大分・三佐湊と尼崎間で運用していたが、武庫川と西国街道の交差する西昆陽庄・田近屋敷(現国指定文化財住宅)は岡藩筆頭家老・中川平右衛門(田近新次郎)の実家に当たる。五家荘に潜伏した大坂牢人は、藩船の運航に合わせ五月雨的に尼崎・田近屋敷に移動、後は武庫川を小舟で下り荷役に紛れて乗船した。    
 岡藩御用船を運用していたのは、堺で"燃えるもの(硝石)"を扱って外洋船50艘保持した元貿易商・柴山氏であり、沖に出て"中川クルスの帆"を上げれば、豊後どころかマカオ・マニラ・ゴアまでも船出できたのである。  この組織的な大坂城レスキュー作戦に織田有楽斎(正室・平手の方)が関与したことはその係累が豊後岡に存在することから推定される。さらには有楽斎の裏には徳川秀忠御台所・於江の意志が働いたことも十分考えられるのだ。愛娘・千姫が人質だからばかりでは無かった。於江の心の中の叫び声が聞こえる。・・・"これ以上、浅井の血は流させぬ!"
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 では一体どのような人物が、尼崎・西昆陽庄の田近屋敷に一時潜んでいたのか?・・・これを語るは別の機会に譲りたい。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】マウント【年代】古代【地域】大阪平野【話題提供】R.N
No.26二大古墳(応神・仁徳)配置が大阪平野に示す埋れた「お宝地点」

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 巨大古墳日本一とされる仁徳陵だが、山稜体積では僅差で応神陵に負けているらしい。しかしその順位よりも二大古墳が跳び抜けて巨大であり、かつ大阪平野の同緯度にセットで造営されたことに興味尽きない謎がある。恰も片方の前方後円墳の向きを逆転の上、と或る南北の対称軸で反転したような観すらある。

 これについては古墳時代の“「神聖王と執政王の二王並立制」(岸本直文)で王墓と同様に別墓が造営され、この制度が河内王権すなわち応神・仁徳・履中・反正まで存続した。”との学説を当て嵌めて推理してみたい。
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 絶大な王権を得た河内王朝は、如何に二大古墳を配置することで、彼らの権威を世に知らしめんと目論むかを一考する。“王権は「高天原」の神々より、「国産みの地」から広がった国土を統べる為に授かった。故に河内王朝は「高天原」と「大地」の中央に位する。”ことではなかろうか?しからば大古墳の一方は「高天原」たる「金剛山」と「国産みの中心点」を結ぶ線の中央地点に造営するだろう・・・それが神聖王「応神陵」に当たり、今日まで“誉田八幡社”として祀られている。
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 この仮説に基づいて、今も神域の「金剛山頂」と「応神陵・後円部中央地点」の北緯東経から「国産み中心」地点を割り出すと@“北緯34.705度、東経135.546度”となるが、凡そ城東区「京阪野江」駅の東側に当たる。更にその割り出し地点を通る南北軸で、「応神陵・後円部中央地点」の対称点を求めると「仁徳陵」域内に入る。同様に「金剛山頂(古の高天山)」の対称点を求めると「神於山」域に入る。「神於山」麓は池上・曽根環濠集落遺跡に代表される“邪馬台国岸和田説”の想定地であり、「神於山」は古の“神の依代(御旅処)”と目され、かつて銅鐸が掘り出された“曰くの山”だ。
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 念の為に検算として逆に「神於山頂」と「仁徳陵・後円部中央地点」を結ぶ線と件の「金剛山頂」「応神陵」線の交点を求めるとA“北緯34.706度、東経135.546度”となる。

  1. 地点とA地点は表示が重なるほど近い。

 まとめると、応神・仁徳の河内王権は、高天原想定地「金剛山」と御旅処「神於山」を基点に「国産み想定地点」を指し示す大二等辺△形を大阪平野上に描く目論見で、東西の端に二大古墳を造営した。王権の絶大な力を海上から知らしめる為に、執政王の前方後円墳は“三国が丘”に作ったが、神聖王墓では無い故に祀る社は設けられなかったと推理する。
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 因みに「国産み中心」地点と割り出された“北緯34.705度、東経135.546度”にはどのような“お宝”が地中深く埋まっているか推理してみたい。凡そ4000年前、古代河内湾に浮上した“足島”は河内王朝の頃には、周りの島々とくっ付いて広い洲と化していただろうが、元祖「国産み中心」点を示す“御柱”は二十年ごとに立て替えられていたのではないか?・・・その柱の根本が腐らずに今も遺っていると期待したい。出雲大社のように!

【ジャンル1】景観【ジャンル2】神話【年代】古代【地域】奈良【話題提供】鴨言口歳社
No.25記紀編纂時の高天原想定地〜大和オリンポス山

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 古事記は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し編纂、712年元明天皇に献上されたとある。

 その冒頭「天地開闢」と「国土創生」神話が配されているのは申すまでもない。

 ここで屡語られる記紀編纂当時の政治裏事情に触れると、“664年、白村江の戦いで唐軍に惨敗した大和王権は、その後長く唐の大軍が九州に来襲、畿内まで攻め寄せるシナリオに戦々恐々とした。皇位継承した大海人皇子は中央集権的な律令国家の建設を急ぐとともに自らを初めて“天皇”と称した。こういう状況下、当事者として自らの天皇としての正当性と、日本國“民”のアイデンティティー確立の必要性を痛感、その目論見から編纂したのが古事記であり、「日本神話」・・・“らしい。

 そして大和朝廷は様々な古伝承を基に自らに都合の良い「日本神話」を仕立て上げ、当時の民草に押し付けた如く語られる向きもあるが、果たしてそうなんだろうか?
                    ・
 純正国産物語であれ、はたまた比較神話学の指摘する“海上の道”もしくは“大陸草原の道”経由の外来譚であれ、須らく「神話」が想像の産物とは言うまでもないが、記紀編纂当時の大和朝廷の少なくとも畿内膝元で、神々の座します「高天原」、伊弉諾・伊弉弥の立ち下りた「天浮橋」そして「淤能碁呂島」も その想定地は“後世の伊勢”の如く参詣先成らずとも民草の間に広く知られていたのではないか?

 だから大和政権はそれら物語を民意として“神話に採用する”必然性があった!

 金剛山は仏教伝来以前、「高天山」と称されており、朝廷辺りもそう認識していたようだ。その山麓に全国支社展開するメジャー「鴨社」「御歳社」「一言主社」「山口社」の各発祥の地が集まるのも“大和オリンポス山”=「高天原」に結びつく痕跡ではないか?

因みに各地域別に「高天原」想定地が存在して不都合は無い。それが南九州なら高千穂峰、出雲大山、駿河富嶽だったのでは!? 当調査隊は“我田高天原”情報を心待ちしている。

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】石碑【年代】戦国【地域】大分長湯【話題提供】竹田市
No.24 干十字架残欠の丘

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 奥豊後の久住山麓・長湯温泉の日向塚の上に「干十字架残欠」はある。

 最上部と柱部の一部、台座が残されており造立時の形態を伺い知ることができる。墓碑では無く礼拝用のクルザード(大十字架)であったと考えられ、しかも街道沿いの見晴らしの良い処なので、往時は豊後街道を行き来する多くの信者が礼拝した。

 「T型残欠」はイエスの罪状を記した「捨て札」か? 切支丹最盛期には八大布教地の一つだった豊後各地に80基もの石造クルザードが立てられていたと宣教師は記録している。

 今でも豪雨で川が増水すると、ローマ字の穿たれた石版片が流れ落ちてくることがあるらしい。上流の何処かに、クルザードは倒れたまま人知れず眠っているように思われる。
                   ・
 件の“日向塚に横たわる「T型残欠」は流れ落ちること無く、砕かれてより何百年、台座の丘でそのまま残っていたことに素朴な謎を感じる。クルザードは幕府禁ずる邪宗門故に破壊されたのだが、或いは近隣の人々は“倒れた姿”に若くして逝った縁者”を重ね合わせて合掌し、且つ埋もれたり、豪雨で転がり落ちた際には、度々元の位置に戻して守ってきたのではなかろうか?

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】仮面【年代】古代【地域】兵庫赤穂【話題提供】M.A
No.23異郷の神々(2)〜大避(ダビデ)を祭る社

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 京都太秦の「大酒神社」を耳にしたことはあったが、元は「大避」と書き、しかも「ダビデ」を示すとは【話題提供】頂くまで知らず、しかも播州赤穂に流れ下る“千種川”沿いに三十余社も集中分布しているとの情報に、調査員は急ぎ“赤穂”を目指した。

 最も主要な社は坂越湾に面した高台に座ます「大避神社」で、湾に浮かぶ天然記念物・生島を神域とし渡来人「秦河勝」の墓を守り伝えている。その社のお宝が“西域胡面”だ。

「秦河勝」と言えば聖徳太子の側近であったが、流罪に遭って坂越に来たともいう。

発端はどうであれ、河勝率いる渡来人の一団が此処に入植後、千種川沿いを開発しながら遡ったことは確かだろう。そして各処にユーラシア大陸の彼方から運ばれて来た異郷の神を「大避社」「大酒社」として祭った。秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するトルコ系一族とも、眉に唾付けて読む“跳んでも本”では「イスラエルの失われた10支族」の内、中国大陸を経て日本に帰化したのが「秦氏」ともある。                   ・
  “赤穂”と聞いて頭に浮かぶのは「忠臣蔵」と「塩田」だが、浅野内匠頭の領国には毛色の変わった社が連なり、米の作柄を見回った際には立ち寄りもしただろう。 因みに隣の相生には赤穂藩から分家した旗本・若狭野浅野家が存続して居り、その陣屋は今も残っている。松の廊下の刃傷事件後に此の地から「浅野家」がすっかり消えた訳では無かった。

 処で、イスラエルの世界遺産で地中海に面した港湾都市「アッコー」があるが、秦氏がユダヤ支族の流ならば、“赤穂”も遠い父祖の地名に由来するものだろうか!?

【ジャンル1】景観【ジャンル2】街道【年代】21世紀【地域】大阪茨木【話題提供】K.K
No.22 21世紀お宝巡礼道〜『フロイスの道』

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 400年前高山ダリオ&ジュスト・安威シモン・中川ヤコブ・鳥養トマス・田近ジョバンニ・清水谷ロケ・上笠ペテロ・上野マリア・佐保カララ・銭原マルタらが夢見て果たせなかった地上の楽園“北摂のハライソテレアル”。

 大坂の陣直前、豊臣秀頼はキリシタン武将を味方に引き入れる策を目論み、勝利の暁には豊臣家守護神を奉る地として、大坂城天守閣の北辰に当たる「高山右近旧領・茨木五箇庄」に『キリスト教聖地建設』を許した。

 今もその痕跡は“五箇庄中心セントロ(千提)”“聖農夫イシドロの岡(石堂が岡山)”“北辰の辻(聖地計画の基準点)”“クルス山城”“佐保砦(メゾン)”“千提砦(カーザ)等の地名として、“北辰の辻”の周囲に確認される。

 没後400年、バチカンにおいて「高山右近列福」の決定が成されようとする今日、摂津高山へ辿る『フロイスの道』を再現すれば、新たな“21世紀お宝巡礼道”となろう。

ジャンル1】景観【ジャンル2】渡し【年代】全期間【地域】兵庫尼崎【話題提供】K.Tajika
No.21武庫川の渡は日本歴史版“ルビコンの渡”か?

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 古来より尼崎(昆陽)(一部西宮、伊丹を含む)の歴史を見れば日本の歴史が判ると言われてきた。刻を遡ると、どれほどの人物群が此処西国街道・武庫川の渡を往還したことか!ひと時、此処を拡大鏡で注目してみるのも興味深い。

731年  僧行基が寺と昆陽池を築造

769年  この地に千三百年以上留まる氏田家、石井家、藤木家、重田家が弓削道鏡の指図により奈良の都から左遷、武庫川左岸に配流された。

1180年  平清盛の大輪田遷都強行

1351年  高師直、師泰兄弟は西国から京へ帰還の途上、武庫川の渡を越えた直後、上杉勢に殺される。

1582年  羽柴秀吉、中国より大返して尼崎に着陣す。

1863年  八月十八日の政変で失脚した七卿は追放され、西昆陽宿を経て長州に落ちる。

1868年  晦日に尼崎浜に上陸した長州兵は、武庫川渡西岸で軍勢を整え渡河、二日後の正月三日、鳥羽伏見の戦いの火蓋は切られた。

等々長い歴史の節々で様々な出来事を観てきた。正にこの渡は歴史の証人地点と言える。
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 奈良の古から、武庫川は都の存する畿内と鄙を分ける“意識上の境目”だったのではないか?だから平城京からの左遷組は川の西岸に留まった。師直一族は芦屋打出浜で敗れ和睦して渡った直後に襲われた。都落ちする七卿は武庫川を越えると直ぐに鉄漿を落としたのは、この川が化粧有無の境目だったからだ。門戸村役人が目撃した奇兵隊主力の長州勢は西岸で隊列を整えると、一か八かの骰子を投げて渡河!晦の西国街道を京へ急いだ。

 戦国の羽柴秀吉しかり。武庫の渡は日本歴史における、正に“ルビコンの渡”だった。

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