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お宝・古文書調査隊

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「お宝・古文書調査隊」(甲山堅隊長)の発足を機に、eブックランドは埋もれた歴史の発掘に乗り出しました。知られざるお宝、過去の歴史にまつわる文書などを是非、お知らせください。掲載は無料です。

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【ジャンル1】お宝【ジャンル2】埋蔵地【年代】戦国【地域】北摂【話題提供】K.K
No.60大坂落城時に籠城南蛮人が持ち出した豊臣御宝の在り処

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 大坂城勘定奉行・波多野三郎が手配し多田銀山周辺に隠したとされる豊臣埋蔵金四億五千万両(現在の貨幣価値200兆円)の噺はつとに有名で当調査員が語るまでも無い。
此処に敢えて取り上げるのは、もう一つの豊臣御宝の在り処だ。

処で、件の莫大な豊臣埋蔵金を埋めたとされる「多田銀山奉行支配域」だが、以前は文字通りの川辺郡「多田」周辺だったが、徐々に東側に拡大して北は能勢から東は茨木北部まで含まれたとされるに至った。銀山奉行の支配域は北摂全般に亘っており、最近では豊臣埋蔵金の候補地点はもっと東寄りではないかと囁かれている。古からの鉱山跡はゴルフ場造成でかなり潰されたとは言え、現在でも数多遺っている。主に新種の蝙蝠目当ての好事家が探検に入るらしいが、酸欠・溜り水で非常に危険であり地図に記載するを憚られている。当調査員は恐る恐る黄点箇所のみ訪れて確認した次第。

さて此処に取り上げる別の埋蔵金とは、予め計画的に隠された「お宝」ではなく、大坂落城直前どさくさ紛れに籠城南蛮人とそのクリエンテス(南蛮の血を引く者達)によって運び出された「お宝」で、百人〜二百人が関与したと思われる。持ち出された量は判らぬが、直後に南蛮船の寄港地を一箇所に絞った形跡があることから、"海外流出を水際で喰い止めるべき財宝量"と大坂城金蔵残高を調べた徳川幕府は認識していたのではないか?
その「金銀」は何処に隠されたのか?・・・海外送金出来ずに結局は持ち出した者達で山分けにしたと思われる。だからそのような金銀を捜し回るは詮無い話なのだ。
しかし"ばらばらに分解したら意味の無くなる御宝"は、そのまま何処かの鉱山間歩に放置されたのでは?・・・気になるものが一個在る。淀殿が幼くして輿入れした千姫にプレゼントした「サンタ・カーザ」だ。言わば"シルバニア・ファミリー"のような家形の箱で屋根の上に聖母子像が載せられている。家箱を神輿のように運べ、ミサ用具(聖餅箱、燭台、水盤)を収納できる容積がある。
北鎌倉・東慶寺の寺宝にイエズス会紋章付きの「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」が伝世しているが、元々大坂城で千姫の持ち物だったが、東慶寺に七歳で幽閉された秀頼遺児・奈阿姫(天秀尼)を慰める為に、後日乳母だった三宅善兵衛の妻が東慶寺に持参したとも語られる。一体千姫も乳母も「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」が何処に在ると知っていたのだろうか?
因みに摂津三宅党は「羅針盤」を家紋とする南蛮人クリエンテスの一党だ。
調査員は、豊臣ならではの"金むくの聖母子像を載せた黄金作りのサンタ・カーザ"を期待などしてない。むしろ素朴ながら神々しい聖母子像を載せた「金箔貼の聖なる家」がひっそりと隠された洞窟に何時の日か辿り着くことを念じている。
茨木の郷土史作家T氏は"「石堂岡山」の何処かに、豊後竹田のような「岩壁に掘られた洞窟礼拝堂」が存在するのではないか?!"・・・と推理されている。

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No.3摂津高山砦跡の背後に聳える「イシドロの岡」
No.4戦国時代の北摂・佐保クルス山城の主
No.5豊臣秀頼家臣が大坂落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯
No.13メゾン(Maison)と呼ばれた北摂の城
No.14イエズス会士が読み解く北摂切支丹の里・千提寺景観に含まれる絵画的寓意
No.2221世紀お宝巡礼道〜『フロイスの道』
No.27大坂籠城者レスキュー作戦
No.34イタリア・シエナのPetrucci家が戦国の北摂津に現れた次第
No.35摂津・渡辺水軍所縁の岡藩の女性ルイサは南蛮血統?
No.36大坂城内に国際ハーレムは在った!?
No.48戦国の北摂土豪列伝(5)イエズス会記録に遺こる鳥養トマス
No.51戦国の北摂土豪列伝(8)南蛮土木技術を会得した三宅党
No.53戦国の北摂土豪列伝(10)住友党と天正のレインマン
No.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】肖像【年代】戦国【地域】大阪茨木【話題提供】K.K
No.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎

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 江戸城の北辰に日光東照宮を造営して家康を奉り、徳川家の中枢都市・江戸の守護神としたことは良く知られている。だが豊臣家が大坂城北辰の山間に「北辰之辻」地点を設けたことは歴史の彼方に忘却された。先んじて太閤秀吉は豊臣家の中枢都市・大坂を守護する聖地造営を目論んでいた。徳川家康はそれを真似て聖地・日光を造営させたのが真相だ。
そして大正期に発見された世に名高い「ザビエル肖像画」が「北辰之辻」地点から800m北の旧北辰中学校庭裏の千提寺集落に三百年間秘匿されていたことも偶々ではない。
大阪から京都に向かう各鉄道路線図はどれも横長に大阪⇒吹田⇒茨木⇒高槻⇒桂⇒京都と
表示されるのに馴染み、「茨木」は「大阪」から相当東に位置すると錯覚する向きがある。真面目な歴史書の掲載地図でも発見地「千提寺」は実際より京都寄りに描かれており、この誤謬は結構罪深くて数多の"戦国歴史好事家"の楽しみを一つ殺いだ帰来がある。
さて"件の肖像画が大坂城北辰の地に秘匿された謎"だが、「北辰之辻」地点の周囲に「石堂岡(イシドロ)」「千提(セントロ)」「免山(メゾン)」「来栖(クルス)」等のラテン語に由来する地名の多いことが解明の糸口と成る。「豊臣聖地」は秀頼の代に「カトリック聖地」に化けた次第。この紆余曲折は存外、戦国終末期の最大のミステリーではなかろうか?!
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【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】マウント【年代】古代【地域】京都長岡京【話題提供】K.K
No.58北摂土豪の天王山(5)影武者・明智巳蔵の墓(いげの山)

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 明智光秀の本陣は御坊塚(恵解山)なる乙訓地域最大の前方後円墳上にあった。
本陣図絵を拡大すると光秀の周りに四名の兜武者が床几に座っている。その中で当調査員が特に注目したいのは、光秀の左後方に居る青鎧の影武者で従弟の明智巳蔵。
巳蔵は、赫々たる明智戦記には登場してこない凡庸な侍だったが、唯一光秀の従弟にして容貌・体躯が似ていた。恐らく控え目で寡黙な人物だろう。
                    ・
 "天下分け目の天王山"、明智勢は右翼から崩れた。 戦場は一旦形勢が決まると直ちに"経済行為の場"に移行する。雑兵達は首を持ち帰らないと褒美が貰えない。逃げる側と頚が金に見える追掛け側の間で必死の白兵戦となる。"戦"は形勢決まるまでは「遠戦主義」で、遠くから鉄砲弓矢を射掛け、互いに接近しても長槍をばたばた遣り合うだけだった、という説もある。幾ら刀槍の武芸者でも四方から白兵戦になったら為す術無かろう。
 中川史料集「山崎陣頚帳」に拠れば、いち早く明智本陣に飛び込んだのは松田五郎左衛門、野溝甚四郎、順松七郎の三人、明智巳蔵の首取ったは「順松七郎」と明記されている。
三人はその褒美として其々二十五石の加増を受けたのだが、順松七郎の消息だけは以後途絶えた。中川氏播州三木移封への供揃え表にも豊後竹田国替えにもその名は幾ら捜しても出て来なかった。・・・何か七郎と巳蔵の間に在ったのかなぁ?・・・と想像を逞しくさせる男なのだ。だから後は二人のドラマを想像するしかない。
                    <槍の順松七郎>
 順松七郎は宝蔵院流長槍の遣手だったが、つい先ほどまでブルブル震えていた。処が戦場の形勢が誰の目にも明らかに成ってくると、急に己が獲物を求める猟犬に変じてゆくのが判った。周りの仲間も目の色が変わり、伊勢与三郎、御牧三左衛門、松田太郎左衛門勢の兜頚を狙って勢いづいた。しかし七郎ここで頭を巡らし、"人数が殺到すれば奪い合いになって兜頚にはなかなか有り付けぬ・・・ここは明智本陣に真っ先に飛び込もう"
そう決めると、依然明智本陣幡めく御坊塚に向って駆け出した。
 時を同じくして光秀の勝竜寺城撤退決まり、本陣の旗指物そのままに影武者・巳蔵が"采配"をもぎ取ると、"殿、疾くお引き下され!"と静かに申し出た。そして御坊塚本陣は巳蔵一人残し誰も居なくなった。・・・羽柴勢がこの本陣に押し寄せるには、まだ少し間があるだろう。大将座は戦況が良く見えるのう。・・・巳蔵は古墳上を吹き抜ける風を感じながら束の間来し方を振り返った。
                    ・
 件の順松七郎が「御坊塚」上の明智本陣に近付くと人の気配せぬ。"蛻の殻か!"と急いで本陣を横切ると、一人床几に座って身動きせぬ甲冑武者が居た。更に近づくと「采配」握っている。七郎咄嗟に長槍を構え直して、"其れ某、中川清秀が侍大将・田近新次郎が郎党・順松七郎と申す者、其処許さぞや名の有る武将とお見受け致した。御命頂戴仕り度。"
 床几の武者は七郎を向いたが暫く口を開かぬ。ちらと目を逸らすとクリークを渡り来る味方が見える。急がねば兜頚を横取りしかねない。七郎焦りを覚えるも、まったく戦意示さず床几に座って唯こちらを見るだけの相手を長槍で衝くは難い。"御名は?・・・"
すると兜武者は躊躇する七郎に親近感を覚えたのか笑顔で"わが名は巳蔵・・・影武者よ!" 二名の味方が駆け上がって来る、あれは吉田五郎左衛門と野溝甚四郎!もう刻が無い、だが笑顔を向ける相手を衝けない。固まった七郎に巳蔵は床几から立ち上がり"形ばかり手向かい致そう。この頚は貴殿のものじゃ"と太刀を抜いて斬り掛かった。宝蔵院の槍は一瞬で決まる。地に倒れた巳蔵を助け起こして"何か言い残すことはござらぬか?明智殿!"・・・薄目を開けた巳蔵は最期に何事かを七郎に囁いた。そして七郎頷いた。
                    ・
 七郎は明智巳蔵の頚で金星第一等の褒美"金一掴み"と二十五石知行を貰ったが、北摂の地に留まった。・・・十五年後、七郎は元服した息子・八郎を連れて御坊塚に登った。此処に明智巳蔵の亡骸は眠っている。"祖父殿に宝蔵院流槍を披露せよ"見渡せばあの時と同じ景色が在る。"あれが天王山・・・あそこに流れるは淀の河"七郎もまた恵解山の上で、あの時の巳蔵同様、一時佇んで来し方を回想した。
<関連図書>
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【ジャンル1】人物【ジャンル2】南蛮【年代】戦国【地域】京都大山崎【話題提供】K.K
No.57北摂土豪の天王山(4)右近後備えに就いた?幻影の南蛮軍

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 "先鋒の高山右近隊は、明智勢の斉藤利三隊に猛然と襲い掛かり数百の頚を取ったが、右近側の討死は僅か一人・・・"とフロイスはゼウスの加護の証として手記した。
これが一つ目の眉唾に思える点。後々の右近の戦ぶりから"戦巧者"には見えない。対し
相手は数多の明智戦記で大戦の場数踏んだ斉藤利三勢2200! 比べて高山右近のこなした戦は摂津の局地的な小競り合いに過ぎない上は、猛者・斉藤利三が完敗する訳は無い。
 右近は羽柴軍議席上、"先峰は領地の遠近たるべし!"と発言して件の先鋒に浴し、「天下分け目」の勝者側に立ったことで、その武勇を実態以上に膨らませてた帰来がある。
 二つ目。左翼天王山麓に陣した中川清秀隊は兵力2500で三段に構えたが、清秀と右近の石高差から推定して右近勢は最大1000でしかない。つまり対する斉藤隊との兵力差が有り過ぎる。1000では二段備えも組み難い処。この齟齬には歴史好事家も悩んできたようで、他の武将を取混ぜて人数を膨らませている。結果、木村重茲は池田勢の後方に陣したかと思えば右近の右翼に配されたり、400年後に陣場をうろうろする羽目となる。
 三つ目。突撃の際、"サンチャゴ!""マリア!""ゼズス!"と絶叫したことが後方に位置した様々な部隊まで聞こえたとある。果たしてこの生死を掛けた局面で、高々十年前切支丹に改宗したばかりの将兵達が付け焼刃の "サンチャゴ"以下の南蛮掛け声で勇気を奮い立たせること出来たのだろうか?・・・奇妙な成り行きが重なっている。
                    ・
 通説に戻り、右近隊は淀川氾濫原とも言える深田とクリーク多い戦場で"サンチャゴ!マリア!"を絶叫しながら斉藤利三隊を壊乱に追い込んだと認めよう。・・・
ならば右近隊の二番備えに母国語で"サンチャゴ!"を唱える盾と長槍で組んだ南蛮ファランクス+甲冑纏う馬に跨った西洋騎士武者が存在したと推理したい。十字軍エルサレム攻防の際、狭い道で甲冑馬隊は戦車のごとく大活躍したと語られているではないか!・・・
 羽柴に味方するよう右近に説得したのはイエズス会布教区長グネッキ・ソルディ・オルガンティノだった。彼は明智光秀がカトリックを胡散臭い目で眺めているのに気付いており、明智天下となればイエズス会は日本から追い出されるかもしれぬと恐れていた。
 此処は高山右近に加勢して是が非でも勝って布教の橋頭堡を死守せねばならぬ。北摂に植民した南蛮人に檄を飛ばしたのは彼だろう。そして身辺護衛役の元マルタ騎士団ジョバンニ・ロルテス(山科勝成)に南蛮加勢軍の指揮を取らせた。そして戦い終ると件の南蛮軍は幻影の如く風の如く何処かへ消え去った。多分茨木・五箇荘のCentro千提周辺だ。
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No.2221世紀お宝巡礼道〜『フロイスの道』
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N0.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎
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【ジャンル1】史跡【ジャンル2】住宅【年代】戦国【地域】兵庫尼崎【話題提供】K.K
No.56北摂土豪の天王山(3)田近党が敵味方に分かれた次第

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 北摂一の軍師「田近新次郎」は天王山麓の最前線に布陣した中川清秀隊2500の一番備えを指揮した。処が、淀川南岸の洞ヶ峠麓で京街道を押える寺内町「招堤」は明智側に与したが、その僧兵隊長も「田近宗善」なる血縁だった。街道こそ違え田近党は両陣営に分かれて最前線を指揮した訳だ。跳んだ事態に陥り当人達は文字通り口から泡を吹いていた。
                    ・
こうなった経緯を語るには四半世紀遡らねばならぬ。西宮の武庫川西岸に「田近野」なる地名が残るが、其処が田近党の本貫地である。辺りは武庫川水系が度々氾濫する地域で、頃は定かならぬ大洪水に見舞われ、一帯は手の付けられぬ程の被害を受けて再建を諦めた次第。田近党は対岸に移動、以来西昆陽庄「田近」は500年存続し「田近屋敷」は国指定文化財住宅になっている。さて田近党は明治維新に至る500〜600年間、九条家と繋がりを維持した族党でもある。その九条家が淀川南岸の洞ヶ峠下に持っていた荒地の開墾に手を貸していた。後に其処は本願寺に譲られ「招堤」なる東西2キロ南北3キロの僧兵充満する寺内町に変貌した次第だが、現在もその辺りに「招堤北・中・南・元・大谷」と共に「招堤田近」の地名が洞ヶ峠側に遺っている。
                    ・
織豊時代の経緯に触れると、本貫地「田近」に"刑部少輔"を名乗る人物現れ、息子として生まれたのが新次郎で、姉が縁戚の宗善に嫁いでいた。
さて武庫川大水害の疲弊で苦しかった田近長者"刑部少輔"人減らしに掛かった。「宗善」は武術一般に長けた処を見込まれて「招堤」に招かれ"僧兵隊長"になった。片や出奔した「新次郎」は茨木山間・千提村で催された南蛮祭(ミサ)を見物に訪れて切支丹八党衆と昵懇になった。中川清秀が北摂で台頭し"良き侍"を求めていた処、懇意の八党衆から「新次郎」を推薦され家臣とした。「新次郎」は持ち前の交渉能力を発揮、無類の気短で有名な清秀が絶大な信を置く片腕となった。和田惟政追討から信長命による能勢平定そして荒木謀反まで、巧みに危ない綱渡りを誘導し中川清秀の勢力拡大に貢献した。そして織田軍団の中で清秀は高山右近と共に明智光秀の寄騎大名の地位に就き、信長から命を受け中国へ出陣した矢先に"本能寺"は燃え上った。
                    ・
明智側に与した「招堤田近党」の経緯を記しておこう。秀吉により寺内町「招堤」はすべての権利を剥奪されて元の田園に戻り、僧兵長「田近宗善」は追われる身と成った。
そして火点りの覚めた十余年後、奥豊後の中川・岡藩城下に山伏姿の「宗善」現れる。
 関ヶ原合戦、中川氏は西軍への内通を疑われ、嫌疑を晴らす為に無理やり臼杵城太田氏を攻め多くの老職が討死した。田近新次郎も床几に座ったまま「関の社」の神主に至近距離から撃たれた。兎も角も件の「田近宗善」家は幕末まで岡藩士として存続した次第。
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No.21武庫川の渡は日本歴史版"ルビコンの渡"
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No.54北摂土豪の天王山(1)遥かなる洞ヶ峠の「招堤大営」

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】城砦【年代】戦国【地域】大阪茨木【話題提供】K.K
No.55北摂土豪の天王山(2)秀吉が軍功No.1と認めた「安威了佐」

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「安威五左衛門了佐」はほとんど知られて居らず、"大河ドラマ"に出てもこない。そもそも天王山の戦いで先陣を預かった高山右近、二番の中川清秀も演じる役者にセリフが付いたのはつい最近のこと。北摂土豪は半世紀近く"戦国ドラマの端役"でしか無かった次第。
 当調査員が「安威了佐」に興味を持ち始めた約30年前、彼について判っている事と言えば、1)豊臣秀吉の祐筆 2)北条征伐、関東各処で制札布告 3)摂津のとある寺の免税文書発給 程度だった。つまり豊臣政権を支える民政官の一人に過ぎず戦場で刀槍を振り回したことはほぼ無かったような人物。
 処が2000年に「完訳フロイス日本史」全12巻が出版されてから彼の注目度は上がった。
高山右近に次いで詳しく紹介されていた切支丹が"シモン安威了佐"だったからだ。
今日、豊臣政権の研究者で「安威了佐」に関心を持つ方が出てきており、その方のお蔭か、彼の事績が数多く解明され、かつ大阪の陣前までの生存が確認されるに至った。
                    ・
 念の為に「安威五左衛門了佐」に纏わる事績をランダムに並べてみよう。
@当時ヨーロッパに輸出された屏風の裏貼りから、彼の墨筆が多数見つかった。
A小田原の陣の際、前田利家を含む武将達は奏者・了佐から秀吉の意向を伺っていた。
B摂津四郡(島下・豊島・川辺・能勢)代官に抜擢され、摂津守に叙任された。
C茨木城代を勤め、大坂城が完成するまでの間、側室・茶々を預かっていた。
D摂津守了佐の妻は北政所・寧々の祐筆だった。
E千利休切腹の際の検視役だった。
F天正15年「バテレン追放令」を長崎の南蛮船甲板上で伝えたのは摂津守了佐だった。
G大坂城内の一室で小西ホアキン、高山右近、イエズス会士らと布教策を協議していた。
H秀頼家臣時代、禁裏棟上式に大坂城代表として薄田隼人と共に列席した。
I生玉の"安威殿坂"に住み、そこには秀頼側室と成った「於愛の方」が居た。
                    ・
 高槻市史を見ると、北摂の名族として他を抑えてまず族党「安威」氏が挙げられている。
「安威」党は古代の「中臣安威連」以来、阿武山頂にある"大職冠・藤原鎌足"の社稷を守ってきた山守の系統にして、平安時代には九条家荘園の下司として記録に出てくる。
 室町時代、都で花形の"将軍家側回役"として煌びやかに付き従い、かつ足利奉公衆として北摂軍団八党四十家の連隊長に任じられていた。因みに甲賀奉公衆五十三家の司令官は「和田」氏だった。
 十六世紀初頭の永正錯乱の際、細川高国の檄に呼応した北摂軍団(池田・伊丹・三宅・茨木・安威・福井・太田・入江・高槻)の一翼を担い、二万の軍勢で泉州堺を攻めるも
ほとんどの主将格が討ち取られて大壊乱、族党衰微に陥り、その後北摂土豪の主役の座は常陸から流れてきた"平重利"の血を引く高山・中川・荒木党に移った。
                    ・
 件の安威了佐だが、北摂奉公衆を率いて河内奉公衆・柴山氏と共に都落ちする足利義昭の最後の従者として泉州堺まで輿を担いだことが北摂八党衆に伝わっている。
その後に、元室町奉公衆で安威クリエンテスの北摂八党四十家が一万二千石で戦国の世に独立を画策し安威氏を"殿様"にした経緯が豊後岡藩家老・戸伏家に遺されていた。
高槻・高山氏と茨木・中川氏に挟まれた帯状の狭い範囲に、仲の悪い両者の緩衝地帯として存在していた。その主城として構えたのが十七廓を有する「佐保クルス山城」である。
 しかし安威領の存在は織田信長の眼中に無く、能勢平定の後一万二千石分は中川清秀の次男・秀成に与えられた。かつ地図上の安威領は高山右近加領とされた。つまり安威氏は織田信長に領地・石高共、有無を言わさず没収された形だから恨んで至極当然だ。
                    ・
 そして天正十年六月二日、青天の霹靂のごとく本能寺の変生じ、織田信長は斃された。
直ちに明智光秀、元足利奉公衆を味方に引き入れるべく"室町家再興"を掲げた。元奉公衆は伊勢・一色・今峰・上野・諏訪・蜷川・御牧氏ら二千騎も居たと言われている。
勿論、足利義昭に最後まで付き従った北摂奉公衆主隗の「安威了佐」はその誠実な人柄で知られており光秀が一目置いたことは間違いなく、西国街道・京口の要衝・天王山砦の守将とした。つまり当初、安威氏に率いられた北摂八党衆は明智勢として天王山頂に陣を張っていた。開戦前夜の山登りの様子が中川史料集に描かれている。山頂に居た安威・太田・上・上笠・粟生党は後に中川家臣に化けるのだが、すべての家譜に"元足利家人"と明記されている。しかし彼らは前夜、高山・中川そして黒田官兵衛の説得に寝返っていた。
                    ・
 黎明を迎えると予ての作戦通り天王山砦増強に向かう松田太郎左衛門隊が登ってきた。そして姿が互いに良く見える八合目まで達した処で、遅れて登り上がった黒田・羽柴秀長隊が至近距離に引きつけて射撃に及んだ。松田隊は山麓へ転がり落とされて、中川勢一番備の田近隊に討ち取られ形勢は一挙に逆転。それを合図に高山勢・中川勢は永荒池の前に出て背水の陣を敷いた。
                    ・
 その後日を語ると、高山右近は山崎先陣の活躍で摂津と近江で四千石を貰ったという。
明石転封時を含めると一万石プラスされているが、唯の一万石で摂津から中川氏と共に追い出された。中川清秀を評して秀吉は"表裏比興の輩"と洩らした。清秀も右近も"荒木村重謀反"の際"主を裏切った前科"がある。秀吉は右近と中川氏を余り信用してなかったようだ。山崎戦の際も羽柴勢は前線からかなり間を取ってなかなか詰めなかった。山崎地狭の深田・ボトルネック地帯で、土壇場に最前線の両者が"表裏比興"して、迂闊に永荒沼を背にした羽柴勢を沼に叩き込む"古代ローマ軍の惨劇"も有り得た次第。
 片や、安威五左衛門は摂津守に叙任され、四郡十万石強の豊臣家蔵入地代官と成り茨木城に入った。実質的に地元摂津の大名に収まった訳である。"その収入は莫大"とフロイスは記している。大大名達も気まぐれ化しつつある秀吉の意向を探らんと了佐を頼りにした。
南蛮人と伴天連達も誠実な切支丹シモンを頼り、布教活動の助言を請うた。
五左衛門の係累八左衛門は太閤秀吉の小姓を勤め、粗相をしでかした茶坊主を太閤の命により斬り棄て、その褒美に斬った太閤の太刀を拝領した。
 関ヶ原合戦で大坂城から三成も長盛もいなくなったが、シモン了佐は残った。そして一層淀殿や秀頼の信頼を得て、謂わば大坂城大奥の執事長と化していた。
大坂城に女主は居たが執政官は居なかった。大坂の陣に至る14年間とはどのような期間だったのか?・・・城内の女性陣が皆で温い足湯に浸かり続けたような得も言われぬ雰囲気だったのか?シモン了佐は豊後岡藩家老の同族・戸伏氏より送り込まれた一人の女性を養女として秀頼の側室に差し出した。「安威殿の方」あるいは「於愛の方」と呼ばれた。
                    ・
 シモン了佐が何時ごろ没したのか長らく判らなかったが、最近慶長十九年四月頃まで生存していた証拠が出てきたようだ。つまり大坂の陣勃発の直前まで生きていた。
 処で秀頼側室「安威殿の方」と中川久盛側室「安威の侍女」が同一女性であっても無くても慶長二十年正月生まれの三代藩主・久清は安威の血を引いている。そして自身の四人の子供を藩主と新たに家老とした。つまり久清以降の豊後岡藩は藩主の看板は「中川」でも血筋的には「安威の血統」と言っても誤りではない事になる。
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No.4戦国時代の北摂・佐保クルス山城の主
No.5豊臣秀頼家臣が大坂落城時に馬印金瓢箪を携えて脱出した経緯
No.2221世紀お宝巡礼道〜『フロイスの道』
No.27大坂籠城者レスキュー作戦
Mo.28養源院・浅井長政起源のお宝法名(戒名)を名乗った人物
No.30中川久清ミステリー(1)〜不可解な出自
No.31中川久清ミステリー(2)〜大名ギネス二冠王
No.36大坂城内に国際ハーレムは在った!?
No.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】城砦【年代】戦国【地域】大阪枚方【話題提供】K.K
No.54北摂土豪の天王山(1)遥かなる洞ヶ峠の「招堤大営」

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 天王山陶板絵図解説「頼みの諸将来たらず〜明智光秀の誤算」にはこう書かれている。
"本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将みな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。 
処が羽柴秀吉が毛利と和睦、10日目の6月10日には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江から京都に戻り、翌11日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ"・・・・この従来から踏襲された解釈に長く引っ掛かりを覚えていた。
                    ・
 調査員は半世紀"大河ドラマ"を眺めてきたが、天王山の戦いに至る前哨で屡描かれる、「洞ヶ峠」に光秀が出張って"現れぬ筒井順慶"にいらいらと床几から立ち座る仕草。
身に余る事件を引き起こし、精神の安定を失った様を表現してるようだが、光秀には「洞ヶ峠」に出向く理由が有り、「筒井順慶」を待っていたのは付け足しに過ぎない。
                    ・
 標高49m、麓からの比高なら20mも無い京・大阪の境目にある洞ヶ峠の麓には「招堤」という東西2km南北3kmの堀と土塀で囲まれた寺内町があり僧兵を抱えた「大営」なる言葉が似合う軍事都市が存在した。大坂からの京街道に被さっており、背後の洞ヶ峠には望楼を構えていたが一早く明智方に与していた。
                    ・
 尼崎〜摂津・渡辺津間に集結していた羽柴・丹羽・織田三七勢にしてみれば淀川の南を通る京街道を進む選択枝は「招堤大営」を押えられては初めから失われており、淀川と天王山に挟まれた山崎地狭を無理やり貫かざるを得なかった。
この段階ではまだ明智有利ではないか?山崎ボトルネックでの膠着状態長くなるほど羽柴勢は不利に陥る。それこそ西から毛利の大軍迫り、大坂湾岸に四国勢現れ、様子見していた細川も丹後から山越える。明智勢は羽柴勢を天晴に打ち勝つ必要など無かった筈だ。
 光秀は「招堤大営」の守備盤石振りにむしろ笑みを浮かべていた。"勝機我に有り"と!
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No.53戦国の北摂土豪列伝(10)住友党と天正のレインマン

53

 北近江・余呉湖の畔にある志津が岳・大岩山砦址は豊後岡藩の聖地である。
天正十一年(1583年)柴田勝家方の闘将・佐久間盛政1万に大岩山砦は急襲され、中川勢守備隊700は壊滅した。百年遠忌の際、山頂に清秀始め戦死者の菩提を弔う石碑が立てられ、此処で果てた数多の名前が刻まれたが、その中に「入江土佐」の名も遺されている。
 「入江土佐」とは元高槻城主「入江将監春景」の縁者だったが、足利義昭に逆らい三好方に与した為、周りの摂津衆に攻め立てられ将監春景は自刃。その後中川清秀に好遇で迎えられ、母衣武者十八騎の序列No.1に収まった。しかし件の大岩砦で討死した次第。
 中川氏が播州三木に移封の際、何を思ったか「土佐」の後継は"新手の仏教を広める"と言い出し暇乞いした。そして京に上ると「涅槃教」の僧に成るとともに「富士屋」なる薬種と書籍を扱う商人となった。また此の時、名を旧名の「住友」に戻している。
                     ・
 頃同じく、中国船で堺湊に「白水」と呼ばれる人物が上陸する。彼は山師であり「南蛮吹き」と称される冶金技術も持っていた。「白水」が北摂の山間を跋渉していたことは、多田銀山に遺る痕跡から推測される。恐らく彼は安威川水系を遡りながら河原の石を調べた。そして摂津と丹後を分ける分水嶺に達すると、そこを源として桂川に流れ込む曽我谷川沿いを下った。「白水」は誰にも「南蛮吹き」技術を教えなかったが、「曽我理右衛門」にだけは伝授した。そして「理右衛門」は弱冠19歳で「白+水=泉屋」を京で起業する。
 当調査員は「白水」「南蛮吹き」「曽我谷川」「曽我理右衛門」「白+水=泉屋」を横睨みする時、以下の想像を頭に浮かべる。
                     ・
 「白水」とは"銀髪且つ水の如き白面"の男で、恐らく北部ヨーロッパ出身の人物だ。彼は北摂を探索中「曽我谷川」沿いで或る女に遭遇した後、京に出て"銅精錬ビジネス"を起業した。夫婦の間に男児が生まれた時、何と命名するか?・・・・・「白水」の本名は"レイモンド・ハックスレイ"だったのでは?イングランド中部マンチェスター〜バーミンガム間に○○レイ、××レイなる地名が多数見つかる。"レイ"とは単に「処」を表す。更にこの周辺は鉱山地帯だから両市とも産業革命で大きく発展を遂げた。
「白水」の子は"レイモンド・ハックスレイ・ジュニア"となる。「白水」は妻と出会った"レイ"のメモリアルに名字「曽我」+「レイモンド=理右衛門」=曽我理右衛門と名付けた。實の子故に"南蛮吹き"を教えたから理右衛門は19歳で起業できた訳だ。
 「白水」とは天正の日本に現れた謂わば"レインマン"である。曽我理右衛門は父「白水」のメモリアルに屋号を「白+水=泉屋」とした。この屋号は多田銀山に遺っている。
 さて件の「富士屋」主人・住友政友が僧を勤める「涅槃教」の信徒に曽我理右衛門が居たことから、曽我理右衛門は住友政友の姉を妻に迎えた。そして住友「富士屋」と曽我「泉屋」は店を合併することに成り、「ハックスレイ」と「住友」両家の血を引く末裔が鎖国時代の主要輸出品「精錬銅」を一手に引き受ける大店と成った。
 処で今日、住友G各社の社是の原点とされる「文殊院趣意書」は"商事は不及言候へ共万事情に可被入候・・・"に始まるのだが、どこか北ヨーロッパ的"プロテスタント"の影響を受けているように思うは"穿ち過ぎ"だろうか?
                     ・
 慶長五年(1600年)三月、豊後臼杵湾にリーフデ号は漂着し、二人目のイングランド人ウィリアム・アダムスがやって来た。家康の旗本となったアダムス・三浦按針とレインマン・白水の出会いを想像するのも一興。冬の京に立ち寄ったアダムスを茶室に案内するとレインマンは仕舞い込んでいたウィスキーでもてなした。雪降る中を馬に跨り江戸へ向かうアダムスに徳利を手渡す。"道中、飲んで体を温めてくれ・・・So・・・ long!"          
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No.2221世紀お宝巡礼道〜『フロイスの道』
No.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎

【ジャンル1】古文書【ジャンル2】人物【年代】戦国【地域】兵庫西宮【話題提供】K.K
No.52戦国の北摂土豪列伝(9)陰徳太平記に遺された瓦林文書

52

【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租瓦林越後守代々摂州瓦林の城主、始室町家に属後伊丹家に属し後荒木に属摂津守村重か家老と成る。天正八年荒木亡ひて太祖の旗下に属す
 西宮の瓦林党は室町家⇒伊丹氏⇒荒木氏と主を渡り歩き、村重謀反の折は家老の一人として支砦の守将だった。有岡落城後には族党の女が村重室Daxiと運命を共にしている。
                  ・
 毛利家に伝わった「陰徳太平記」の中に「瓦林正頼記」が遺されており、伊丹有岡落城の丁度70年前(永正六年)"泉州深井合戦"の興味深い戦場レポートが記されていた。
"永正の錯乱"と呼ばれる政治混乱の中で生じた"細川家内訌"の戦とだけ書いておこう。
一方の細川高国の激に呼応して摂津国衆の池田・伊丹・三宅・茨木・安威・福井・太田・入江・高槻軍2万が環濠都市・泉州堺を攻めるべく淀川を越え天王寺を横切り南下、百舌鳥八幡社隣の東村砦(定の山古墳)に陣した。
 対し細川政賢側は海を渡って7千の兵が堺に籠城したのだが、その中に瓦林正頼も居た。
開戦に先立ち、物売りに身を窶して正頼は百舌鳥に陣取る摂津勢を探ったのだが、2万の大軍を擁して勝ったも同然と至る処で酒盛り遊女を引きこんで踊り騒ぎて乱れきっていた。正頼は堺に戻り"摂津勢は我勢に比べ三倍の兵なれど、軍規も褌も緩みきっている"と 報告した。これに基づき政賢側は籠城策を止めて野戦に打って出て深井城(西村砦)に突如旗揚げした。東村砦と深井城は直線距離にして3キロ弱だが、百舌鳥古墳群の真っただ中が戦場と成った。
 急に現れた堺野戦軍に対し、摂津側は多勢で潰せばかり深井城に押し寄せた。
城に突入した高国軍は、城中には誰もおらず出口が閉められ「籠の中の鳥」状態になってしまった、と描かれている。脱出しようと出口に集中したところへ火矢を浴びせられ煙にまかれて、恰も籠から順番に飛び出してくる鶏を討ち取るように高国側の大将方は皆討ち死、摂津勢は大壊乱、至る処に古墳ひしめく百舌鳥野を彷徨う羽目となり、地形を熟知した堺軍に討ち取られていった。どれだけの将兵が無事に淀川を越えられたかは判らない。だがこれ以後、轡を並べていた摂津国衆は急激に力を無くしてしまった。半世紀後の永禄五年(1562年)、戦国時代の畿内最大規模の会戦として知られる教興寺合戦では摂津衆の主役が入れ替わり、遠く常陸国から流れてきた平重利の血を引く高山飛騨守重房らが台頭して来た。思うに古い摂津衆は血からして衰えてしまっていたのだ。
                  ・
 外から新しい血を入れた高山・中川・荒木党らの勢いを観るにつけ、三宅・茨木・安威・福井・太田党の面々はこう思ったのではないか?"我らの族党にも外の新しい血を注ぎ込まねば下剋上の世の中滅び去ってしまう。"その様な存亡の危機に直面していた彼らの前に現れたのが、体躯良く珍しい兵器・火薬を操り新手の宗教・思想を持した南蛮人の集団だった。北摂の各族党生き延びる為には南蛮人を引き入れるしかなかったのである。
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No.51戦国の北摂土豪列伝(8)南蛮土木技術を会得した三宅党

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租三宅和泉守者上氏と同族、摂州島下郡三宅村に居る。
元亀三年白井河原御合戦の前新庄御在城の内清秀公の幕下に属す
 永正元年(1504年)細川高国の命で、三宅国政が築城した三宅城の大きさは東西600m南北540m(10万坪)で、その中に東西180m、南北270mの本丸を有するかなり大きな城だった。周囲に堀を廻らしたようで現在も「堀田」「蓮池」「大名寺池」の地名が遺る。
 一土豪には過ぎる城を建設した三宅党は城郭・都市計画等の土木技術に執心のDNAを伝えていたようだ。中川氏が豊後岡に移封し新たに岡城を建設する際、三宅党は石割奉行と町割り奉行を兼務した。竹田盆地全体を岩壁で囲まれた難攻不落の要塞と化し、その中に城下町を取り込んだ。だから盆地が密封化されており内側の様子が判らないように成っている。そして尾根上の城は全長3キロに及ぶ長城にして、そそり立つ石垣は隋処で和風を逸脱し南蛮風と言われている。
 これら土木計画を現場指揮した三宅党の家紋は"羅針盤"と称されている。推理するに三宅党の面々は、三宅城に居した時分から摂津に現れた南蛮人の有する測量技術に並ならぬ興味を示し、その南蛮技術者ごと族党に取り込んでいたのではないか?因みに大坂城発掘現場からも岡藩が担当した石垣部分から三宅党を表す"三"を刻印した石が出ている。
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No.16豊後岡城とスペイン・クエンカ城塞の類似
No.34イタリア・シエナのPetrucci家が戦国の北摂津に現れた次第
No.36大坂城内に国際ハーレムは在った!?
No.52戦国の北摂土豪列伝(9)陰徳太平記に遺された瓦林文書
No.59「ザビエル肖像画」が大坂城天守の北辰に秘匿された謎
No.60大坂落城時に籠城南蛮人が持ち出した豊臣御宝の在り処

【ジャンル1】古文書【ジャンル2】人物【年代】戦国【地域】大阪池田【話題提供】K.K
No.50戦国の北摂土豪列伝(7)朝鮮虎に兜頭を咬まれた渋谷弥右衛門

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【中川家譜】諸陣騒動す。敵出たるかと見るに、その郷に隠れなき大虎陣々にて、人を喰ひ此方の陣に飛び来る。渋谷弥右衛門二十間にて見掛け、薙刀を取り直す処、弥右衛門に飛び掛り、冑の鉢に咬み付き喰い伏する。時に弥右衛門かねて虎は猛獣なれども、死したる者は喰わぬと聞きし故、空死して居りければ、虎は冑を放ち、一、二間飛びしざり唸り居る。下村太郎太夫御本陣より鉄砲をさげ、駆けつけ間二十間計りにて打たんとす。虎真一文字に飛び来る。下り敷き十匁筒二つ玉拾間計りにて打つ。誤たず中りて虎二、三度飛び上り、小谷に落ち入りて死す。諸陣を騒がせ人を数多喰いたるを打止むる事、御感に預かり当時の御褒美として、茶襦子の御陣羽織、石餅の紋付きたるを、御手づから下さる。此虎鼻先より尾先まで、長一丈余無類の大虎なり。又渋谷が冑は椎形なり、歯形三つ有り、二つは五歩計り入る。一つは喰へそらしたる跡あり。弥右衛門空死のこと落ち着いたる仕形なりと感ぜらる。
                  ・
 「山崎陣首帳」には池田市大字渋谷の土豪・渋谷弥右衛門の手柄が記されている。それから十年後の文禄朝鮮役の最中にハプニングは生じた。当時、朝鮮方はわざと虎を放ったとも語られるが、元々そこに棲みついていたのかも知れぬ。全長3mはある大虎が中川勢の陣に現れ、冑を被っていた弥右衛門の頭をがぶっと咬み付いた次第。咄嗟に"虎は死体は喰わぬ"噺を思い出し空死のふりをしたら冑を放して別の獲物を探し、今度は下村太郎太夫に向かった。太郎太夫は本陣から鉄砲を持ち出すと、腹這いになって狙いを定めた。虎は一文字に飛び掛って来た処を誤たず撃ち抜いた。
 虎が陣の下の小谷に転げ落ちたのを皆が集まって見ていると、後ろから咬まれて死んだ筈の渋谷弥右衛門も眺めていたコメディにもなる逸話だ。虎の咬み痕残る冑鉢伝世していれば正に「お宝」!
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No.49戦国の北摂土豪列伝(6)千姫の遊び相手役だった原田太郎助

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其祖原田肥後守同子十右衛門摂州原田邑に居る、其頃清秀公新庄御在城にて、原田と共に荒木摂津守に与せらる。新庄より伊丹御参向の度々原田邑に御入在て人馬の息を休ませる。村重謀反の時十右衛門は伊丹城に籠る。伊丹落去の後原田の邑に家居し清秀公の御味方に参て一族師弟を差上げ御陣の御供に候せしむ。
 豊中曽根の住宅街に原田城土塁跡が遺っているが、土豪・原田氏は新庄城に居た中川清秀と轡を並べて伊丹の荒木村重に仕えていた。荒木謀反に際しては伊丹有岡籠城側に居た。
暫く浪人の後、石子紀伊守なる人物の取次で原田帯刀は豊臣家臣となり大坂城入った。そしてその子・原田太郎助は倅の時より父・帯刀と一緒に秀頼公に仕えることになった。"幼少之者之事に御座候へば、天樹院様之御側へ被召寄、常々御碁等被遊候御相・・・・"とある。
 つまり幼少の原田太郎助は大坂城に輿入れしてきた千姫の遊び相手になり、碁等していたと言う。
 大坂の陣では秀頼から二千計りの兵を預かり戦っている。それにも拘らず千姫の御厚恩により大坂牢人の咎を受けることも無く備後福山藩に召し抱えられた。
 同じような例が他にも見られることから、千姫は秀頼命乞いの為に徳川秀忠陣に出向く直前、籠城家臣団を助ける策として"大坂牢人狩りの詮議を受けたら、我千姫の警護役であった、と答えよ"と命じていたのではないだろうか?牢人詮議の役人も容疑者からそう切り出されては手荒な真似も出来まい。それどころか「千姫の警護役」が箔付けに成り大名家が召し抱えた形跡がある。だから伝通院「天樹院(千姫)の墓」に足を向けて寝られぬ秀頼家臣末裔の家が在る次第。
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【ジャンル1】古文書【ジャンル2】人物【年代】戦国【地域】大阪摂津【話題提供】K.K
No.48戦国の北摂土豪列伝(5)イエズス会記録に遺こる鳥養トマス

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】鳥養氏者淡州菅家の一族にして摂州鳥養に居り、永禄年中鳥養四郎太夫同三太夫、清秀公の御味方に参って忠勤を抽す。天正十年六月山崎合戦には三太夫弟権右衛門高名してご褒美蒙る。四郎太夫者志津が嶽にて戦死、四郎太夫の子権右衛門者朝鮮にて戦死、権右衛門養子権右衛門者加藤清正に勤仕す、・・・・
 北摂・鳥養党は元々淡路島の水軍・菅氏の流で、恐らく淀川を遡り鳥養の中洲に根拠地を新たに構えたのだろう。黒廻、城ノ前、内殿、地殿など地名が城の名残として残る。
元亀元年(1570年)三好三人衆・石山本願寺と戦った織田信長が退却時に軍議を開いた城だ。
「山崎陣頚帳」に手柄を記すも その後どうした訳か中川氏を辞し加藤清正に靡いた。
                          ・
 処で、イエズス会有馬のセミナリョの学籍簿に"摂津 鳥養トマス"の成績簿が遺っていた。1587年12月、京から有馬ヘ移った者の中に摂津、河内の三名の記載がある。

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 この名簿によると「鳥飼トマス」は1582年(天正十年)僅か9才で京のセミナリオに入学5年間ラテン語を学んでいる。多分南蛮人の通訳が出来るほど上達していただろう。
 興味深いのは、トマスが河内の三箇頼照サンチョの二人の息子頼植アントニオと頼成マチアスと共に勉強していたことだ。三箇サンチョと云えば河内キリシタンの柱石としてその事績はフロイス日本史に詳しく紹介されており、ルイス・アルメイダが訪れた湖沼地帯に浮かぶ小島に建てられた教会と周辺の景観描写は「日本史」の中の白眉ではないか!
各地からミサに集まったキリシタンは舟で小島に渡り、丸でハイキングに来たように野外で食事会を催した。その光景を想像しただけで調査員等は垂涎である。何処よりも時空を
超えて"沼に浮かぶ教会の小島"を訪れてみたいものだ。大東市三箇菅原社辺とされる。
因みに当時、鳥養黒丸城と三箇城とは二里しか離れていない上、舟で往来できた筈。     
                    ・
 トマスがミヤコでセミナリオに入学した1582年(天正十年)とは、本能寺の変で信長が斃された年である。そしてその後の"天王山の戦"で、三箇サンチョは明智方に与した。その三年後に三箇マチアスが入学して来たことに注目したい。知行を失い放浪する父・三箇サンチョに替わり、イエズス会が子を預かることにしたのではないか? 1587年と云えば、突如秀吉がキリスト教禁止令を出したことから、京でセミナリオを営めず肥前有馬に移動したのであろう。三箇マチアスはその後修道生活25年の後、高山右近らと共に国外追放され、翌年マニラで客死した。元和八年(1622年)三箇アントニオは妻マグダレナと25人の信者と共に長崎で火刑に処せられ、55歳で捧教の生涯を閉じた。
 改易された加藤家を経て豊後岡藩・中川氏の許に帰参した鳥養屋敷内にはその奥に祭壇の彫り込まれた五画形洞窟がある。トマスは最期まで捧教人だったと思う。
 そして祭壇の燭台に火を灯し、若き日の友・アントニオとその妻マグダレナそして異郷の土と成ったマチアスの冥福を祈った。
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No.37朽網・原のINRI石碑
No.38サンチャゴの鐘
No.40キリシタン洞窟礼拝堂
No.41久戸稲荷〜日本の洞窟礼拝堂

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No.47戦国の北摂土豪列伝(4)城州浪人・秋岡甚兵衛

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租秋岡甚兵衛者浪人山科居住之処、武勇の大将を頼み昇進を心掛京都摂州之間徘徊の処、清秀公御武勇に奉起伏、御幕下に随ひ身命を□御奉公相勤、御内外御用万端無御隔御軍用金才覚諸向御味方引付等多者甚兵衛ニ被仰付。
 秋岡甚兵衛は元城州山科に居た浪人だが、清秀に仕えて刀槍の腕だけでなく、軍用金の扱いを任される経理の才覚も持ち合わせていたようだ。清秀から重宝がられて中川勢の内向き外向きの様々な用向き・雑事をてきぱきと熟す実に有能な家臣だった。
 一説には、摂津で荒木村重が"刃向かう族党は容赦なく叩き潰す!"と宣言し猛威を揮った際、村重の命を受けて諸砦攻めの先鋒に立ち恐れられた、とも語られている。
                      ・
 噺は一気に明治時代に跳ぶが、川端康成の生い立ちを観ると、三島郡豊川村宿久庄の庄屋に生まれるも、血縁には恵まれず茨木中学に進学した頃には最後の祖父も亡くなり孤児に成っていた。その康成の後見人が当時衆議院議員の秋岡儀一氏、と書かれている。
 北摂茨木の地縁から想像するに、恐らく戦国の「秋岡甚兵衛」と明治の「秋岡儀一」は何処かで繋がっている。処で豊後岡藩には藩主・中川氏と共に移り住んだ「豊後秋岡」氏が居り家譜が遺されているが、それには"城州浪人"となる以前の経緯が書かれていた。
"紀州・秋岡城に居りしが、当地の戦乱に巻き込まれて城州山科に脱す・・・"との短い記述で何時頃の出来事かも判らない。 当調査員は長い間「紀州・秋岡城」の所在地を捜しているが、未だ到達出来ないでいる。情報を得られれば必ずやその"廃れたる丘"に佇み「戦国秋岡党」に思いを馳せよう!
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【ジャンル1】古文書【ジャンル2】人物【年代】幕末【地域】兵庫宝塚【話題提供】K.K
No.46戦国の北摂土豪列伝(3)人質を逃がした?三蔵山城の佐曾利党

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租佐曾利筑前守代々摂州河辺郡佐曾利の邑を領す。
天正七年四月摂州北郡征伐の時上佐曾利福王の城に盾籠る。馬場城主馬場常陸介以下諸城皆和段談に相成に付独立成かたく不得止事筑前守も清秀公の旗下に属す。
 織田信長が京に現れる前まで、北摂土豪が注視していたは丹波八上城の波多野氏だった。波多野党は丹波国主の座を狙い北摂にも触手を伸ばしていた。だから地黄城の能勢氏は波多野と姻戚を結んでいた。恐らく三蔵山城の佐曾利氏も同様だろう。
 処が、尾張勢が京を席巻してから事態は急変してゆく。信長命を受けて中川清秀は北郡征伐に乗り出すが、順次和談に持ち込んで味方に引き入れていき、刃向かう八上城・波多野氏を摂津から追い出した。その後、明智光秀が八上に籠城した波多野氏を囲むことになる。降伏し安土に連行された波多野一族が皆殺しにされたことは大河ドラマで有名な噺だが。
                 ・
 処で佐曾利氏は明智光秀に近かったとも語られる。また摂州北郡辺りで信頼される武将だった。件の八上開城約成りて佐曾利氏は波多野、明智双方から人質を預かったという一説がある。それが事実なら信長の気紛れでまさか安土の惨劇が起ころうとは、波多野も明智もそして佐曾利氏は予想もしてなかった。
 嘘か誠かは別にして明智の人質は光秀の「佐保」という娘だった。佐保姫は三蔵山城で波多野何某という人質に対面した途端、互いに一目惚れしてしまったと云う。しかし安土の惨劇生じて和約は破れた。波多野何某は忽然と姿を消し絶望した佐保姫は三蔵山麓の池に身を投げた。以来姫を憐み「佐保姫池」と呼ばれるようになった。・・・
                 ・
 此処からは想像するしかないのだが、佐曾利氏は人質を高跳びさせたのではないか?佐保姫の手引かせて!多分裏で人情味厚い中川清秀辺りが噛んでいる。・・・ならば佐保姫は死んだことにしておかねばならぬので、池の畔で溺死の一芝居打った!?
 豊臣秀吉の天下となって暫く後に「波多野三郎」なる侍が大坂城に現れ、後に勘定奉行となり「豊臣埋蔵金」を多田銀山に隠す手配としたとされる。多田銀山は三蔵山の隣だ。
「波多野三郎」とは佐曾利氏に命を助けられた「波多野」一族の生き残りではないのか?
 豊後岡藩には「佐曾利」党とともに「波多野」党の末裔も今日まで存続している。
しからば「波多野」党の末裔は「佐保姫」つまり「明智光秀」の末裔にも当たる次第。
因みに、良かれと思って人質に出した娘が、信長の気紛れで死んだと思い込んでいるのなら、明智光秀が謀反を起こす立派な動機になる、と調査員は断言したい。
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No.60大坂落城時に籠城南蛮人が持ち出した豊臣御宝の在り処

【ジャンル1】古文書【ジャンル2】人物【年代】幕末【地域】大分竹田【話題提供】K.K
No.45戦国の北摂土豪列伝(2)岡田以蔵に直指流を教えた村上圭蔵

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【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租村上丹波守始め伊丹家に属し将となる、其子太郎兵衛伊丹家没落の後荒木村重に属して又将となり人数を預かり城を守る。荒木没落後の後伊丹近辺に家居す。天正八年花隈落城後の後太祖の旗下に属す。
 村上氏は荒木村重謀反の際、有岡城の一砦の守将だった。その後中川清秀幕下に入ったが、豊後岡に移封後も武勇家筋を尊ばれ、旧大友時代に「木戸の城」と呼ばれていた処を改修した「御矢倉場見立居宅」を屋敷として与えられた。広大な村上屋敷は岡城近戸口を防衛する支砦であり、鉄砲隊与力二十名を預かった。
 噺は一気に幕末へ跳び、村上圭蔵という岡藩きっての剣客を輩出した。当時江戸では藩対抗の剣術試合が盛んであり、件の圭蔵は岡藩代表のタレント剣士だった。人柄も良く試合を通じて大勢の他藩の剣士と顔見知りに成っており、中に土佐の武智半平太も居た。 武智は弟子を連れて九州を回った際、岡藩村上屋敷に立ち寄り旧交を温めたのだが、一人若侍を剣術修行の為に預けていった。その若侍が後の"人斬り・岡田以蔵"だったのだ。
 元々武芸の家筋であるから、岡藩「直指流」道場は広大な村上屋敷内にあったと思われる。預かった当初、以蔵はそれほどの腕前ではなかったようだが、一年間修業してめきめき腕を上げた。圭蔵は正か"人斬り"に遣われるとは思いもしなかっただろう。反面以蔵がその剣で「勝海舟」を守ったことも事実だ。勝安房が斃れていれば歴史は変わっていた。 尚、同じ頃「直指流」道場には「広瀬武夫」の父で岡勤王党の「広瀬重武」も居た。
 以蔵が上京して刀を血で染める前に、奥豊後竹田の地で道場仲間達と過ごした"まだ未来に希望溢れる青春"の一コマを想像するのも一興である。

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No.44戦国の北摂土豪列伝(1)村重・清秀・右近の祖父・平重利

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【豊後岡藩・中川家譜】清秀公の祖父は高山石見守重利と云ふ。其家世々常州に住す。重利に至り故ありて城州に来り、又摂州に移る。入道して松雲と称し島下郡中河原に住す。三子あり長女は荒木信濃守重実に嫁す。二は石見守重晶君、三は佐渡守重清公也
常陸国から城州(京)を経て摂州・中河原に住まいした平重利の長男・次男とも中川党に入った。重利には三男・飛騨守重房も居り高山右近の父となる。荒木党に嫁した一女の子が村重であることから、北摂を牛耳り、キリシタン南蛮文化を煽り或いは動乱させた三名、荒木村重・中川清秀・高山右近は従妹同士に当たる。(図参照)
                  ・
当初、平重利と名乗った常陸国から流れて来た男はどのような人物だったのか?
孫・右近の生誕1552年から推定するに1500年頃の生まれ。司馬遼太郎「街道をゆく」によれば、その頃各地で喰えなくなった者達が時宗の僧群や神札を売り歩く徒党に入って村々を巡っていた。彼らは村里に入ると、裸で突然走り廻り里人の笑と関心を引き御札を売ったと云う。重利は坂東の何れかで生まれ流浪の果京に辿り着いた時、「平」を名乗ることにしたのではないか?"摂津なら源氏"と言う程に"「平」と言えば将門以来常陸国"が相場と決まっているからに。
                  ・
摂津「高山」党は古くから箕面山間の勝尾寺周辺に居た族党であり、その頃既に幾つもの支流に分かれていた。元々の「摂津高山盆地」に居つく者、勝尾寺荘園を蚕食する派、池田党の足軽大将に収まる者、そして中川党に追随する流。当初、平重利は"中川清村に雇われた"とも語られるが、どの高山支流に紛れ込んだかは判らぬ。それが何時しか息子二人を中川党の婿に押し込み、孫の清秀は中川党を継いだ。しかし中川家譜には"高山重清と重晶が中川党に入り込んで以来、高山党の横領により元々の中河原に逼塞するほど衰微してしまった。"と恨めしく記している。そのことが根にある為、清秀と右近の間には境目争いが絶えなかった。それが酷くて信長、秀吉が閉口していた痕跡が遺されている。
その争いは両者並んで天王山の最前線に轡を並べた際も燻り、従う北摂土豪衆から"我ら命運掛けたこの一戦、いがみ合うことなく協力して頂き度"と申し入れた。明智勢の桑山隊が右近勢と清秀勢の間隙を突き右近が孤立仕掛かった際、助勢を躊躇する清秀に或る本陣詰めの寄騎土豪が一喝、遊撃・古田佐助隊が急遽桑山勢を押し戻す一幕があった。
古今東西"枝葉も無い事件"は現場で生じるもので、天下分け目の裏で、無名の当事者は要らざる神経を使っていた次第。
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No.3摂津高山砦跡の背後に聳える「イシドロの岡」
No.52戦国の北摂土豪列伝(9)陰徳太平記に遺された瓦林文書
No.57北摂土豪の天王山(4)右近後備えに就いた?幻影の南蛮軍

【ジャンル1】美術工芸【ジャンル2】装飾品【年代】古代【地域】京都長岡京【投稿】M.Isida
No.43長岡京のローマガラス

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 京都府長岡京市の宇津久志(うつくし)1号墳からガラス玉が出土したのは昭和63年のことだった。しかし当初はあまり重要視されていなかったようで、分析結果は2012年6月に発表された。だが5世紀前半の古墳から出たガラスは、なんと1〜4世紀の帝政ローマ時代の重層ガラス玉であり、黒海周辺地域で製造されたものと同じ成分とわかった。
                  ・
 長岡京市一帯は古代の「秦氏」の中心地ともいわれ、平安京が出来る前の長岡京でも有名だ。秦氏は応神天皇の頃に渡来し、摂津北部から山城南部に移住、保津川を大きな堰でせき止め(このため大堰川と呼ばれるようになった)嵐山一帯を開墾し、平安京遷都の資金を提供した商工業に突出して氏族である。織物などの手工業はもちろん酒造や土木工事も知られている。当然、交易も得意とした証拠がこのローマガラスである。
ところで長岡京ができるずっと昔ここに宮(都)があったことはあまり知られていない。
 継体天皇は樟葉宮(大阪府枚方市)で即位し、筒城宮(京都府京田辺市)に移った後、さらに弟国宮に移り、最後に大和に入ったと記紀に記されている。三度目の弟国宮こそ長岡京市の乙訓(おとくに)寺が比定地である。この乙訓寺からわずか南西に3,4百mに宇津久志1号墳がある。
 継体天皇が即位したのが6世紀初旬の503年、弟国宮には518年に遷都したとされている。なぜ継体天皇が三度目の遷都でここを選んだのかは、いずれ詳しく紹介するが、遷都以前から長岡京市一帯は倭国商工業の一大中心地であったかも知れない。
                  ・
 新聞記事には、ローマガラス発見は黒海からの交易ルートを探る上で重要だとしている。秦氏や継体天皇など古代史研究にとっても大きなニュースであるはずだが、この話題はあっという間に萎(しぼ)んで消えてしまった。此処はトロイア遺跡埋まる"弟国ヒッサリクの丘"であり、シュリーマンのような人間が出てくることを期待したい。そしてローマガラスは、「お宝の本当の価値」とは何かを考えさせられる古代出土品のひとつである。

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】マウント【年代】古代【地域】大阪茨木【投稿】M.Isida
No.42仁徳帝陵と太田茶臼山古墳(継体帝陵)を結ぶ聖なるライン

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 「No.18浪速ヒッサリクの丘」には、大仙御陵(仁徳天皇陵)の墳丘中心線を伸ばした延長線が上町台地(古代は海上に突き出た岬)の先端に達することが書かれていた。
 北摂在住の当調査員は、この線が「聖なるライン」と呼ばれることを聞きかじっていた。古墳研究者の一部にとっては有名なラインであるようで、その直線をさらに北東に延ばすと太田茶臼山古墳(茨木市)に行きつくためである。
 太田茶臼山古墳は明治政府の調査不足で継体天皇御陵に指定されてしまったが、直近20年ほどの調査で本当の継体天皇陵は高槻市の今城塚古墳であることが99.9%確実視され、太田茶臼山古墳は継体天皇の曾祖父時代の古墳であろうとされるに至った。
 太田茶臼山古墳は、墳丘の形が誉田御廟山古墳と全く同じ(デザインや比率が同じ)で、大きさはちょうど半分にあたる。誉田御廟山古墳の被葬者はホムタワケ大王(応神天皇)であり、その次に大王位を継いだのはオホサザキ大王(仁徳天皇)である。
 河内湾を取り囲む大河内国(摂津、河内、和泉)のホムタワケ大王は、有力な息子や孫たちをそれぞれの国に配置した。後継者の仁徳天皇をチヌの海が見える場所に、孫の一人を河内湾の北側に分け与えたのであろう。
日本書紀に、継体天皇(オホド大王)はホムタワケ大王の五世孫であると記されている通りとすれば、ホムタワケ大王―○―太田茶臼山古墳被葬者(継体曾祖父)―継体祖父―継体父―継体天皇と繋がり、ホムタワケ大王の孫が太田茶臼山古墳被葬者に合致する。
 なお、古墳は横から見る(拝礼する)のが原則であるらしい。太田茶臼山古墳は北北西―南南東に中心軸があるので、真横にあたる西南西の低地側からその威容が際立ち、西南西には耳原という大仙陵近くにもある同じ地名が今でも残っている。
 さて上町台地の先端には何があったのか、「No.18浪速ヒッサリクの丘」には魏志倭人伝の台与(トヨ)と秀吉の豊臣(トヨトミ)を結びつける斬新さがあった。
上町台地先端にあった難波豊崎宮のトヨサキが「台与の岬」の意味が、河内湾の入口として相応しくて面白そうだ。
<参考>No.26二大古墳(応神・仁徳)の配置が大阪平野に示す埋れた「お宝地点」

【ジャンル1】遺跡【ジャンル2】洞窟【年代】江戸【地域】大分竹田【話題提供】バチカン新聞
No.41久戸稲荷〜日本の洞窟礼拝堂

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 バチカン新聞(L'Osservatore Romano)のGrimaldi記者が、ザビエル長兄ミゲルから15代目に当たるイエズス会士・Louis Fontes師の要請で豊後竹田へ取材に入ったのは、 2013年10月のことだった。そして "Japanese catacombs"記事が全世界に発信されたのは翌2014年1月だった。長身痩躯の記者は小さな携帯カメラのみを持って単身現れたが、その記事を目にして驚く点が幾つもあった。
 まず冒頭の写真が素晴らしい!・・・あの小さなカメラで"いったい何処を撮ったんだ?" と刹那考えた程に美しい映像であり、彼は上手なカメラマンでもあったと判った次第。
 次に記事題名が"日本の洞窟礼拝堂"と銘打たれているのだから、"当然有名な大分県指定史跡「殿町キリシタン洞窟礼拝堂」が取り上げられるだろう"と高を括っていた処、予想もしていなかった「久戸稲荷」のハッとする写真が掲載されていた。「久戸稲荷」は、知る人ぞ知っている"造形的には興味深いが、小さな礼拝堂"の認識しか無かったからだ。それが美しい写真とともに全世界にその存在が伝えられた。
 小さな洞窟奥の暗闇の中の"か細い赤い灯"に視線は吸い寄せられる。そして両脇の"赤い稲荷の幡"は「遠い昔のキリスト教」と「素朴な稲荷信仰」が重複していることを示唆している。「稲荷(イナリ」は「INRI(ナザレのイエス、イスラエルの王」に由来するのでは?という一見"跳んでも説"がある。我々日本人はローマ字を習って「INRI」を何の疑いも持たず「インリ」と読む。処が最近とあるイタリア人の方の発音を耳にして驚いた。 「イエナリ」だったからだ。"いーえぬあーるい"だから当たり前と言えばその通りだ。 固定観念を排して異邦人の注目点に接すること大いに興味深い。

    INRIは  稲荷に化けし  豊後岡    (K.K)

     (キリストは  狐に化けし   豊後岡)
42-2

"小京都"として知られる竹田は、九州中央部の大分県に位置し、山々に取り囲まれて大野川の源だ。自然豊かな地域で、その温泉は日本中に知れ渡っている。温泉はもちろん初期のカトリック布教時代にも存在していた。噂噺に過ぎないが、当時の宣教師達は体を癒す温泉を楽しむ為に屡竹田を訪れていた、と言われている。確かな事は、大分に居たフランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた武士が竹田に来ると、彼を手本に感化されて、此の地の大勢の農民が彼の信教に従ったことだ。二百名以上の人々がカトリックに転向した。
そして竹田は瞬く間に日本屈指の布教地に成り、人口4万の内3万人が信徒と成った。

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 日本のカトリックの始原的センターである長崎を後にした宣教師達は、日本の首都たる京に向かうには、ここ竹田を通らねばならなかった。
 キリスト教迫害が始まると、すべてが変わった。人々の多くは死を免れる為に仏教徒に成ることを強制された。しかしそうでない人々は隠れてカトリック信教を守ったと半ば信じられている。この町を取り巻く森はすぐに、非合法で信教を実践できる隠れ場と成った。彼らは集まり祈りの場所として、山々に小さな洞窟群を彫った。
 今日、岩壁に穿ち開けられた人工の洞窟礼拝所を訪れることが出来る。つい最近まで、そのごく一部だけがその存在を知られていた。三年前、竹田市の文化財担当者が、彼が読んだ「ザビエルコード」(甲山堅)という本に触発された。本の著者は先祖が竹田に住んで居り、伝承噺と推理を混ぜて執筆していた。件の文化財担当者は"もっと他にも洞窟礼拝堂は存在するのではないか?"と直観し、照明を準備しヘルメットを被り森の中を捜し始め、さらに七つ発見するに至った。

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 首藤市長に挨拶の後、或る初老の夫人の家に招待された。それは普通の住宅では無かったのだ。その屋敷は隠れ切支丹信教を疑われた人々が床上に集められて、キリストやマリアの聖画を踏みつけるように強制された処だった。処が、正に此処が竹田地域に多く存在していた地下礼拝堂の一つだったのだ。聖画が踏み付けられていた床が、集められていた大勢の人々の余りの重さに耐えかねて抜け落ち、下の別の部屋の存在がばれてしまった。それは多分私的なワインセラーだったのだろうが、キリシタンの祭祀に使われていた。この発覚で、町名主は即刻死罪を宣告されてしまった。
 しかしこの拠点は、見つからぬように行動せざるを得なかった切支丹の多くの隠れ家の一つに過ぎない。迫害を受けた切支丹達は主に20〜30人のグループで竹田の森の中に集まった。取締の役所から疑いを持たれない為である。彼らは真夜中に祭を祝った。そして山々の洞窟に潜んでいた宣教師達が屡手伝った。これらの祝祭の一つを目撃した場合を想像してみるのは興味深い。森の中を協調して動く蝋燭と松明、恐らくそれは闇に舞うミステリアスな蛍の群のように思えたのではなかろうか。

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 今日までに洞窟礼拝堂は八つ発見されたが、百か所は下らないと考えられている。
 これらを発見したのは後藤氏であるが、彼の先祖も隠れ切支丹だった。これらの場所をキリシタンと結びつけるアイデアは、これらの洞窟が切支丹武士に所属する地に配置されていることに気付いたことから湧いてきた。後藤氏曰く、“幾つかの洞窟は既に知られていたが、神道の神に捧げられている、と考えられていた。例えば「稲荷」と呼ばれる狐崇拝である。「稲荷」はこれらの洞窟で屡見られる神様だ。それは頭字語の変換だったと考えられる。キリシタン達は「INRI」の碑文を遺したが、これら碑文は狐信仰の中に形を変えられた。信心深き神道の一つがこれらの地を彼らの信仰の場だと宣言したように受け取れるし、若しくは「全く真逆の神」に捧げられた地の存在を隠したように思える。
 そして、どの場所にも存在する正確な様式が見られる。岩壁に彫られた礼拝堂と人が集まる大き目のサイズの自然洞窟、秘跡の為の水源洞窟が常にセットで準備されている。”

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<参考>No.40キリシタン洞窟礼拝堂

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